2023/03/30
満州事変からの第二次世界大戦への流れとウクライナ紛争との相似点
ウクライナについて
日々の報道の適切な理解への基礎情報。
ウクライナ共和国の概略
背景
ウクライナは、10世紀と11世紀にヨーロッパで最大かつ最も強力な州であった最初の東スラブ国家、キヴァンルスの中心でした。ウクライナはソ連の解散により1991年に独立を達成しましたが、民主主義と繁栄はとらえどころのないままでした。国家統制の遺産は、経済改革、民営化、市民の自由への取り組みを妨げました。ウクライナは、インフラを破壊し、人道的危機を引き起こした2022年のロシアの侵略に激しく抵抗しています。
地理
エリア
合計: 603,550平方キロメートル
土地: 579,330平方キロメートル
水: 24,220平方キロメートル
気候
温帯大陸;クリミア南部の海岸のみの地中海。降水量は不釣り合いに分布し、西と北が最も高く、東と南東では少ない; 冬は黒海沿いの涼しいものから内陸部の寒いものまでさまざまです。南部で暑い国の大部分を暖かい夏
天然資源
鉄鉱石、石炭、マンガン、天然ガス、石油、塩、硫黄、グラファイト、チタン、マグネシウム、カオリン、ニッケル、水銀、木材、耕地
人と社会
人口
43,306,477 ( 2023 est。)
民族グループ
ウクライナ語77.8%、ロシア語17.3%、ベラルーシ語0.6%、モルドバ0.5%、クリミアタタール語0.5%、ブルガリア語0.4%、ハンガリー語0.3%、ルーマニア語0.3%、ポーランド語0.3%、ユダヤ人0.2%、その他1.8% ( 2001 est。)
言語
ウクライナ語(公式) 67.5%、ロシア語(地域言語) 29.6%、その他(には、クリミア語の小さなタタール語、モルドバ/ルーマニア語、ハンガリー語を話す少数派が含まれます) 2.9%( 2001 est。); 注-2018年2月、憲法裁判所は、州の人口の少なくとも10%が話す言語に「地域の言語」のステータスを付与する2012年の言語法を決定しました" -裁判所、学校、その他の政府機関での使用を許可することは違憲であり、したがって法律は無効になりました。ウクライナ語は国の唯一の公式の全国言語のままです
宗教
正教会(には、ウクライナ正教会( OCU )、ウクライナ自治正教会( UAOC )、およびウクライナ正教会-モスクワ総主教庁( UOC-MP ) <TAG1が含まれます>、ウクライナギリシャカトリック、ローマカトリック、プロテスタント, イスラム教徒、ユダヤ人( 2013 est。)
人口増加率
-0.52%( 2023 est。)
政府
政府のタイプ
半大統領共和国
資本
名前: キエフ(キエフ)
行支部
国家元首: Volodymyr ZELENSKYY ( 2019年5月20日以降)
政府首脳: 2020年3月4日以降、首相デニスSHMYHAL ( )
立法府
説明: 一院制の最高評議会またはVerkhovna Rada ( 450議席。 225人のメンバーが単一議席の選挙区で単純多数決により直接選出され、225人が単一の全国選挙区で直接非公開で選出された, 党リストの比例代表投票;メンバーは5年間の任期)
経済
経済概要
中所得の非EU東ヨーロッパ経済の低下。主要な小麦生産者;産業およびエネルギー輸出国;防衛への大きな財政再配分;ロシアと戦うために毎月20億TAG1を超える米国の戦時援助を求める; 大量戦争関連の移住とホームレス
実質GDP (購買力平価)
$ 535.579億( 2021 est。)
一人当たりの実質GDP
$ 12,900 ( 2021 est。)
農産物
トウモロコシ、小麦、ジャガイモ、ヒマワリの種、テンサイ、牛乳、大麦、大豆、菜種、トマト
産業
石炭、電力、鉄および非鉄金属、機械および輸送機器、化学薬品、食品加工
輸出
$ 815億4000万( 2021 est。)
輸出-パートナー
ロシア9%、中国8%、ドイツ6%、ポーランド6%、イタリア5%、トルコ5%( 2019 )
輸出-商品
トウモロコシ、ヒマワリの種油、鉄と鉄の製品、小麦、断熱配線、菜種( 2019 )
輸入
$ 841億7,500万( 2021 est。)
輸入-パートナー
中国13%、ロシア12%、ドイツ10%、ポーランド9%、ベラルーシ7%( 2019 )
輸入-商品
精製石油、自動車、包装医薬品、石炭、天然ガス( 2019 )
為替レート
hryvnia ( UAH )米ドルあたり-
27.286 ( 2021 est。)
2023/03/29
明治以降の日本のイネの品種改良と生み出されたイネたち
雄町(おまち)
明治2~3年ころ、岡山県上道郡高島村の岸本甚造が、
伯耆大山に参詣の途次、良穂2本を持ち帰ったことに始まる。
亀治
明治3~8年の間、島根県能義郡荒島村の広田亀治が、
「縮張種」から抜き穂によって選出した。
竹成(たけなり)
明治7年、三重県三重郡竹永村の松岡直右衛門が、
「糯千本種」のなかに変わり穂を発見し、選出した。
神力(しんりき)
明治10年、兵庫県揖保郡中島村の丸尾重次郎が、
有芒種「程吉」のなかから無芒の良穂を発見し、選出した。
愛国
明治15年ころ、静岡県加茂郡青市村の高橋安兵衛が、
晩稲「身上起」から選出した「身上早生」に由来する。
亀ノ尾
明治26年、山形県東田川郡大和村の阿部亀治が、
「冷立稲」のなかから選出した。
衣笠早生
明治28年、高知県長岡郡十市村の鍋島菊太郎が
「出雲早生」のなかから出穂の早い変異株を発見して「菊太郎早生」と名付け、
同郡稲生村の吉川類次郎がさらに穂選を加えて改良した。
この品種は高知県の二期作発展の因をなした。
坊主
明治28年ころ、札幌郡新琴似村の江頭庄三郎が、「赤毛」のなかから
無芒の変異株として発見した。
この品種は北海道の稲作の拡大に役立った。
旭
明治41年に、京都府乙訓郡向田町の山本
新次郎が「日の出」のなかから変わり穂を発見し、選出した
日本へは栽培稲がどのようなルートで渡来したのか
(1)伝来の時期
日本では,いつごろからイネつくりが行なわれるようになったのだろうか。
文字による記録がない古い時代のことなので,
それを調べるには古代人の遺跡や遺物の発掘によるほかはない。
そのような考古学的な研究から,
日本のイネつくり文化(農耕文化)は,
紀元前2~3世紀に青銅や鉄の文化とともに北九州に伝えられ,
その後西日本一帯に急速にひろがり,
東日本にまで及んだと推定されている。
歴史学では,この新しい文化の時代を弥生時代と呼んでいる。
弥生時代の前,およそ1万年つづいたといわれる繩文時代の人たちは,
野生の子実を採集したり,狩猟や漁撈によったりして生活を営んでいた。
農耕文化の到来は,自然にあるものを採って食べる生活から,
一定の場所に定住して食糧をみずから生み出す生活へと,
原始社会に大変革をもたらしたにちがいない。
弥生時代にイネつくりが始まったとする考古学的な証拠には,
次の諸点があげられる。
①弥生時代の多くの遺跡から,
炭化した籾や米が多数出土する。
また弥生式土器には籾跡のついたものが,たくさん発見される。
②繩文時代にはなかった鉄の道具でつくった木製の鍬,
鋤,田下駄(面の広い泥田ではく下駄),田舟(収穫に使う小舟)や,
米を蒸したと思われる底に小穴のあいた土器などが,弥生時代に使われている。
③とくに石庖丁と呼ばれる磨製の石器は,
弥生時代の特徴をあらわす農具として有名で,
つの孔にひもを通して手先に密着させ,稲の穂をつみ取るのに用いられた。
④静岡県の登呂遺跡のような水田遺跡が発掘されている。
登呂遺跡は,弥生時代の紀元前100年ころのもので,
安倍川ぞいの湿地に400~600坪の水田が規則正しくつくられ,
今もあぜ道の両側に打ち込まれた木の杭が残されている。
稲を収めた高床式の倉庫跡も見られる。
⑤銅鐸は弥生時代の後期,紀元2~3世紀につくられたわが国独得のつりがねを横に押しつぶしたような形をした青銅の宝物で,
30~135cmの大小さまざまなものが出上しているが,
銅鐸の表面に刻まれた図柄のなかに,日と杵を使って脱穀をしている人の姿や,
高床式の倉庫などがある。
以上のような遺跡や遺物がもたらした知識から,
弥生時代の人たちのイネつくりのようすは次のようなものだっただろうと想像されている。
イネつくりは直播で,湿地に種子が播かれた。
収穫期になると,田下駄や田舟を使って石庖丁で穂だけをつみ取り,
適当な量を束ねて日に乾かし,高床式の倉床にたくわえた。
穂は必要に応じて臼に入れ,竪きねでついて脱穀した。
米は今のように煮るのではなく,底に小穴のあいた土器に入れ,
水を張った別の土器の上に乗せ,下から火を炊いて蒸した。
田植えが行なわれるようになったのは,
飛鳥時代(紀元6~7世紀)ころからといわれる。
今のところ,弥生時代以前に日本でイネつくりが行なわれていたとする考古学的な証拠は得られていない。
しかしそれ以前にもイネつくりがあったという新たな証拠が,
今後発見されないとは限らない。
(2)中国渡来説と南方渡来説
イネは日本の自然環境では自生できない。
とすれば,日本のイネとイネつくりは,
どこかの国から人によってもたらされたに違いない。
それには次のようないろいろな説がある。
①中国北部(華中)から朝鮮半島をへて日本へやってきたとする説
②中国中部(華北)の揚子江流域から海路日本に渡ったとする説
③南方から黒潮に乗って直接日本に流れついたとする説
④南方から,島伝いに日本に伝えられたとする説
こでは①,②の説を中国渡来説,③,④の説を南方渡来説と呼ぶことにしよう。
弥生時代の遺跡42か所から発見された扨と,
86か所から出上した土器についていた籾跡は,
すべて短粒型であり,当時も現在と同じ日本型のイネがつくられていたことを示す。
アジアの国々のうちで日本型のイネが分布しているところは,
中国の華中,華北と朝鮮半島とであり,
中国では今から4,000~5,000年も前からイネつくりが行なわれていたことや,
日本と朝鮮,中国との間に古くから往来があったことなどを考え合わせると,
中国渡来説が最も有力なように思われる。
このうち,華北から朝鮮半島をへて日本に渡来したとする①の説は,
弥生時代に特徴的な石庖丁が華北や朝鮮にかけて分布していて,
他の地方ではみられないことなどからも支持されている。
しかし,華北の農業の主体はコムギやコウリャンで,イネは少なく,
華北のイネつくりが朝鮮半島を南下したという証拠もない。
それはたして日本の弥生時代以前に,
朝鮮南部にイネつくりが行なわれていたかどかも不明であり,
この説を疑問視する意見もある。
これに比べると,華中・揚子江流域から海路日本に渡来したとする②の説は,
日本稲によく似たイネ(梗)がこれらの地域に多く分布していることから,
より可能性が高い。華北の緯度は日本の東北地方にほば等しく,
イネの種類も早生種に限られているが,
華中では播種期が3月初旬から5月上旬にわたり,
昔も早生種から晩生種にいたる多様な熱期のイネが存在していたものと思われる。
日本稲の幅広い熟期を考えると,
華中からいろいろの熟期のイネが日本へ入ったとみるほうが自然だろう。
日本の繩文時代の終わりころの中国は,春秋戦国の時代で,
呉や越の国が滅びていった。
これらの敗戦の流民が新しい永住の地を求めて,
イネやイネつくりの技術をもって,
大量に海を渡って日本にやってきたことも想像される。
南方渡来説は,インド,ジャワ,台湾などの在来種に,
日本型のイネが存在しない点で弱点をもつ。
しかし,
インドのアウスやジャワのプルは形態的に日本型とインド型との中間に位置し,
日本稲との親和性もかなり高いし感光性も低い。
とくにアウスは,日本の自然環境のもとでも開花結実する。
インドやジャワでは3,000年以上の古いイネつくりの歴史があり,
ジャワのプルに似たタイプのイネがフィリピンや台湾の山地にも
分布していたことを考えると,
インドやジャワから直接あるいは島伝いにこれらのイネが日本へ伝わった可能性も否定できない。
古代インドの『ヴェーダ経』のなかでは,
イネをウリヒーと呼び,これが日本のウルチと似ていることや,
ジャワでのプルのイネつくりや台湾の高砂族によるイネっくりの方法が,
穂だけをつんで束ねて日乾するなどの点で,
日本の弥生時代のイネつくりに似ていることなども,
南方渡来説を支持するものとして興味深い。
言語学では,古代の日本人の言語がインドネシア系のポリネシア語と,
朝鮮・モンゴル系の北方アルタイ語とに深いかかわりをもっことを指摘している。
また日本古来の神話のなかにも,北方系の神話と南方系の神話とが混在しているという。
これらのことは,弥生時代以前に南方系の民族が
日本に入り込んでいたことを示唆するもので,
当時すでに日本にイネが持ち込まれたことも考えられなくはない。
2023/03/28
サハリン・千島列島の領土認識概略
1875年のサンクトペテルプルク条約(樺太・千島交換条約)で、
日本は千島列島すべてを獲得し、
ロシアは樺太(サハリン)の統治権を得た。
1905年にロシアが敗北したとき、
ロシアは樺太北部の領有権を保持し、
日本が樺太南部の支配権を得た。
1945年、ソ連軍が千島列島と樺太を占領した。
樺太については日本から意義は唱えられなかった。
1946年、ソ連は千島列島全体を併合し、
南の4島に住んでいた1万7000人の日本人を追放した
1951年、サンフランシスコ講和条約により、
日本は千島列島北部を放棄したが、
南部の4島(歯舞、色丹、択捉、国後)はそうではない。
両国のあいだにはいかなる平和条約も結ばれていない。
返還合意が間近にせまっていると報じたのうわさは、
ロシアのモスクワや、千島列島が属するサハリン州で抗議運動をひき起こした。
アシアの国々のイネと稲作
(1)インドのアマンとアウス
今からおよそ3,000年前に書かれたという古代インドの「ヴェーダ経』という古書には,
イネのことがいろいろ書かれており,
インドでは3,000年以上のイネつくりの歴史をもっことがわかっている。
インドの緯度は北緯8度~37度におよび、
カシミール高原などの高地にも稲が作られている。
また,インドでは雨期の早晩,雨量の多少,
洪水などの気象条件にも大きな幅があり,
さらにアルカリ性土壌や潮水の入るところなどもあって,
イネの栽培方法や栽培時期も多様である。
そのため品種の数もきわめて多く,
生育期間も最短80日のものから最長8か月のものまである。
変わったイネでは,数フィートの深水にたえ"る深水稲"や,
20フィート(6m)の水にも育つ
"浮きイネ"などがあり,
また,ペンガル地方では優れた耐潮性品種も育成されている。
(2)ジャワのプルとチレー
インドネシアのイネつくりの歴史も古い。
ジャワでは紀元前1084年にすでにイネつくりが行なわれていたという。
ジャワとマジュラ島とが米の主産地で,
ふつうの水稲のほかに,深水稲や浮きイネなども栽培されている。
インドネシアの水稲にはプル(bulu)とチレ(tjereh)の二つのグループがあり,
プルは有芒種で,チレーは無芒種である。
チレーはインドのアマンと同様に典型的なインド型で,
インドネシアの全群島に分布している。
これに対して,プルはインド型と日本型との中間的な形態を示し,
チレーに比べて粒が短く,葉が広く,長穂で,倒伏難,脱粒難,耐病性強などの利点をもつ。
そのため低収ではあるが,シャワ,マジュラを初めとして,多くの島の一部で栽培されている。
パリ,ロンポックのように,プルだけが分布している地方もある。
プルの栽培方法は独特で,個々の穂を小刀で切り取って適当な量を束ね,
穂のまま直接精米する。また,播種は苗床に穂播きする。
プルはインドのアウスと同様,インド型と日本型との中間型の形態を示すとともに,
日本稲xチレーの低い関連性に比べ,日本稲xプルでは関連性がきわめて高い。
しかし,アウスのばあいとはちがって,チレーxプルの関連性は低い。
プルもインドのアウスと同様に,感光性の低いものが多いが,
とくに基本栄養生長性が高いことが特徴的である。
そのためプルは,日本の自然環境では開花結実が困難である。
インドネシアでのチレーとプルに似たこのような分化は,
フィリピンから台湾にまで及んでいる。
ユナイテッド・プロビンス地方で栽培されている"香稲"(におい米)も興味深い。
インドのイネの栽培は,インド全域にわたっているが,とくに東部のペンガル,マドラス,
ビハール,アッサム,オリッサなどの地方でイネつくりが盛んである。
これらの地方では年中イネがつくられ,
栽培時期によってアウス(aus;秋イネ),アマン(aman;冬イネ),
ポロー(boro;春イネ)の三つのグループに分けられている。
このうちアマンは最も重要で,
6~7月に水田に散播あるいは移植され,11~12月に収穫される。
アウスは,5~6月に畑地に散播され,8~10月に収穫される。
ポローは,最も重要性が少なく,
12~1月に洪水あとの沼地などに散播され,3~4月に収穫される。
(3)中国の梗と杣
中国河南省の仰韶(あんじゃお)で出土した土器についていた籾殻は,
地層の古さから紀元前20~30世紀(今から4,000~5,000年前)のものと推定され,
すでにそのころ,中国ではイネつくりが行なわれていたことを示している。
中国は国土が広大で,気候的にも大きな幅があり,
したがってイネつくりの時期も地域によって非常に異なっている。
中国南部(華南)では,2~3月に播種して二期作が行なわれ,
福建,広東の沿岸地域では,古くから野生稲が自生していたという記録もある。
揚子江流域を含む中国中部(華中)になると,
しだいに一期作となり,4月初めに播種される。
黄河流域の中国北部(華北)では,播種は5月上句に行なわれる。
イネの品種もきわめて多いが,
古い時代から粳(こう)(あるいは杭)と杣(せん)との区別があった。
梗は日本型のイネで,粒は丸く,炊くと粘りがあって日本稲とよく似ている。
これに対して杣は,典型的なインド型である。
梗と杣との分布をみると,華南のイネは大部分が杣で,
華中になると杣と梗とが混在し,華北では大部分が梗となる。
つまり,中国を南から北へと上るにつれて,インド型から日本型への移行がみられる。
(4)朝鮮半島のイネ
慶尚南道の金海というところの貝塚からは,1900年ほど前の焼米が出土し,
また百済の旧都である扶余城の遺跡からも,1,300年はど前の焼米が発見されている。
これらの米の形状は,いずれも日本型を示していて,
朝鮮半島でもかなり古くから日本型のイネがつくられていたことがうかがわれる。
明治43年の日韓併合以後は,多くの日本稲が導入されたが,
それ以前にあった朝鮮在来稲もすべて日本型で,その多くは有芒,長稈だった。
それらの在来稲のうち,一部の倭稲(わとう)と呼ばれる無芒のグループは,
その昔日本から入ったものといわれる。朝鮮半島は,日本に比べて年間降雨量がきわめて少ない。
そのため,朝鮮在来稲はすべて,耐干性が強い特徴をもつ。
とくに"乾稲"と呼ばれるグループは,水分が欠乏した状態でもよく発芽する。
乾稲は,古くから天水水田に直播された。
明治の終わりごろでも,朝鮮北部では,この種のイネによる水田直播が行なわれていた。
昔は朝鮮南部でもこのようなイネつくりが行なわれていて,
しだいに田植え様式が北上したといわれている。
日本では,すでに飛鳥時代(6~7世紀)には田植えが行なわれていたが,
これが朝鮮南部に伝わって北上したという説もある。
朝鮮半島では近年まで,米租(さるべー)と呼ばれる赤米イネが多くの水田に混入していて,
栽培稲の品質を下げていた。
これらの多くは,短粒で日本型に属するものだが,
洛東江流域には長粒のインド型の赤米イネも分布していたといわれる。
(5)台湾のイネ
台湾の在来種には,昔から高砂族によって山地で陸稲としてつくられていたイネと,
17世紀の初め中国からの漢民族の移住によって,
水田技術とともに持ち込まれたイネとがある。高砂族によってつくられていた山地の陸稲は,長芒,長粒で草丈が高く,
ジャワのプルに似た,インド型と日本型の中間型のものが多く含まれていたという。
高砂族はマレー系の人種といわれ,古い時代に南方から,
これらのイネとともに台湾にやってきたのかもしれない。
いっばう,漢民族によって平地につくられた水稲は,無芒,小粒で草丈もあまり高くない,
中国系統のインド型だった。
明治28年に日本の領王となってからは,多くの日本稲が導入され,
純系分離によって,日本稲のなかから台湾の風土に適したイネが選抜された。
それらは蓬来米(ほうらいまい)と呼ばれ,やがて台湾全土にひろがった。
台湾では”鬼稲”と呼ばれる野生稲が発見されており。
草状は斜伏型,長芒,粒色は赤く,桴は黒灰色で脱粒しやすい。
栽培稲関連性は高いが,栽培稲の直接の先祖型とは考えられていない。
2023/03/27
稲の歴史の概観
現在我々人類が食する「お米」すなわち「栽培稲」の発祥の地はどこであろうか?
栽培稲発祥地を最初に推定したのは
アルフォンス・ルイ・ピエール・ピラム・ド・カンドルである。
彼は栽培稲の発祥地はインドだと指摘している。
では野生の稲からどのように栽培稲が発見されたのだろうか?
今日でも, インド, アフリカ, 中南米などの奥地で,
野生稲の子実を食用とする習慣が残されているところからみて,
おそらく,原始時代にも野生稲の子実は重要な食糧源だったと想像される。
イネの栽培化の第一歩は, 野生稲の種子を人間が播種したときに踏み出されたに違いない。
播種して収穫することを知った原始時代の人たちは, 次には種子を選択することによって,
より収穫をあげうることに気づいたであろう。
このようにして,自然採種から原始的農業に移行するにつれて,
"在来種"と呼ばれる原始的な栽培稲が生まれ,やがて育種技術が確立するようになり,
"改良種"と呼ばれる近代的な品種がつくられるようになったと考えられる。
そのような原始的な栽培稲から
日本型のお米といわれるジャポニカ米と
インドや東南アジアでよく栽培職されている
インディカ米への分化はいつこと起こったのだろうか?
日本型は日本, 朝鮮, 中国北部に,
またインド型はインド, セイロン, 台湾, 中国南部に, それぞれ分布している。
小野川村の所以
上杉米沢藩の地領は関ケ原の合戦の徳川家康の勝利により、
慶長6年(1601)米澤30万石に減封されました。
領地の範囲は旧領のうち
出羽国置賜郡(現在の山形県南部)、
陸奥国伊達、信夫両郡(福島県中通り地方北部)
の30万石となりました。
元禄15年(1702年)に領地を描いた国絵図に小野川村が確認できます。
文字
アルファベット(文字体系)
ピクトグラム( 象形文字) が個々の音を表記
する記号に発展し、最初のアルファベットが現
れた。アルファベットはどれも、紀元前1700年
ごろ地中海沿岸で発達した北セム文字に由来す
る。この文字体系がフェニキア文字への道を開
いた。フェニキア文字は、発話音にもとづいて
表記する、最初に広く用いられた文字である。
こから、ヘブライ文字や、ギリシャ文字を経
由したヨーロッパの文字体系、アラム語の文字
を経たアジアの文字体系が派生していった。
2023/03/13
2023/03/12
人類史においては国家や帝国、文化、イデオロギー、宗教がたえず生まれ、滅んでいるが、それらをみれば、歴史には何の目的も必然性もないことがわかる。しかしながら、歴史的出来事の一貫性のない皮膜の下で、人類史はほば途絶えることなく明確な軌跡を描いてきた。約1万年前に最終氷期が終わって以降、地球上の人口は増加傾向を示し、都市や経済も発展した。
2023/03/11
2023/03/10
神達明神(かんだつみょうじん) 旧町名由来 御清水町
祭神は仇討で有名な、曽我十郎祐成(そがじゅうろすけなり そ)・曽我五郎時到(そがごろうときむね)。
当社縁起によれば、直江兼続(なおえかげつぐ)景勝(かげかつ)に従い上洛した折、 富士山麓の社から曽我兄弟の木像を譲り受け、 実父・樋口兼豊(ひぐちかねとよ)が守る 越後の直峰城(のうみねじょう)に社を創建したという。 上杉家の移封に伴い米沢に移り、樋口家屋敷に隣接するこの地に祀った。
明治12年に村社となり、現在の社殿は大正6年の米沢大火後に再建したものである。神達神社の名は、 樋口越後上田の庄で領した神立村(新潟県湯沢町)の神立明神に由来する。
2023/03/09
周王朝
周(しゅう)
殷(商)王朝
殷(商)いん
夏王朝
夏(考古学上の発見と立証はされていない)
伝統的な中国史によれば、中国建国の祖は“王朝以前”の中国を 統治したいわゆる「五帝」の最初の一人、黄帝(こうてい)とされる。中国最初の王朝は前2070年頃、禹によって 打ち立てられたとされる。禹は玉座を息子に譲ることで、帝位継承 の原則を創始する。この王朝は禹が属していた氏族の名にちなんで夏と命名された。14人の統治者を出した夏王朝の実在を疑い、神話上の存在にすぎないと考える歴史家もいる。
2023/03/08
中国歴代王朝
夏(か)
(考古学上の発見と立証はされていない)