2023/03/30

満州事変からの第二次世界大戦への流れとウクライナ紛争との相似点

 


1930年の国際情勢は、緊張の高まりと大国間の紛争の脅威の増大によって特徴付けられました。大恐慌によって引き起こされた経済的困難は、ナショナリズムと領土への野望の高まりとともに、この不安定さを助長しました。

対照的に、現在の国際情勢は、多国間主義と協力がより強調された、より相互接続され相互依存するグローバルシステムによって特徴付けられます。しかし、世界の安定を脅かす重大な課題と緊張が依然として存在します。

2つの時代の重要な類似点の1つは、軍事紛争に発展する可能性のある領土紛争の存在です。1930年代、日本の満州侵攻とその後の1931年のこの地域の併合は、一連の出来事を引き起こし、アジアでより広範な紛争を引き起こし、最終的には第二次世界大戦に至りました。同様に、今日、ウクライナと台湾をめぐる進行中の領土紛争は、より大きな紛争を引き起こす可能性のある潜在的な発火点であり続けています。

ウクライナでは、2014年のロシアによるクリミア併合をめぐるロシアとウクライナ間の緊張が高まり続けており、ウクライナ東部のドンバス地域で散発的な衝突と停戦違反が発生しています。この紛争はまた、ロシアと西側の間のより広範な地政学的競争の代用にもなり、ロシアは西側がロシアを包囲して弱体化させるためにウクライナを支持していると非難している。

台湾では、台湾が争っている島に対する中国の主権の主張により、状況も緊張しています。中国はこの地域での軍事活動を強化しており、これには台湾付近での頻繁な海空哨戒が含まれており、台湾を本土と再統一するために武力を行使すると脅迫している。米国は、攻撃が発生した場合に台湾を支援することを約束しており、米国と中国の間の緊張をさらに悪化させています。

全体として、現在の国際情勢は1930年代よりも相互に関連し、協力的になっていますが、未解決の領土紛争と大国間競争の存在は、紛争の可能性が依然として懸念されていることを意味します。


ウクライナについて

日々の報道の適切な理解への基礎情報。

1,ウクライナの国土面積は約603,550k㎡で、
  日本の国土面積は約377,900k㎡。
  ウクライナの国土面積は日本の国土面積よりも約1.6倍。
2,クリミア半島の面積は、約2万6844k㎡ で、
  日本の静岡県・愛知県・岐阜県・三重県の4県(29,317平方キロメートル)ほぼ一致。




ウクライナ共和国の概略

背景

ウクライナは、10世紀と11世紀にヨーロッパで最大かつ最も強力な州であった最初の東スラブ国家、キヴァンルスの中心でした。ウクライナはソ連の解散により1991年に独立を達成しましたが、民主主義と繁栄はとらえどころのないままでした。国家統制の遺産は、経済改革、民営化、市民の自由への取り組みを妨げました。ウクライナは、インフラを破壊し、人道的危機を引き起こした2022年のロシアの侵略に激しく抵抗しています。

地理

エリア

合計: 603,550平方キロメートル
土地: 579,330平方キロメートル
水: 24,220平方キロメートル

気候

温帯大陸;クリミア南部の海岸のみの地中海。降水量は不釣り合いに分布し、西と北が最も高く、東と南東では少ない; 冬は黒海沿いの涼しいものから内陸部の寒いものまでさまざまです。南部で暑い国の大部分を暖かい夏

天然資源

鉄鉱石、石炭、マンガン、天然ガス、石油、塩、硫黄、グラファイト、チタン、マグネシウム、カオリン、ニッケル、水銀、木材、耕地

人と社会

人口

43,306,477 ( 2023 est。)

民族グループ

ウクライナ語77.8%、ロシア語17.3%、ベラルーシ語0.6%、モルドバ0.5%、クリミアタタール語0.5%、ブルガリア語0.4%、ハンガリー語0.3%、ルーマニア語0.3%、ポーランド語0.3%、ユダヤ人0.2%、その他1.8% ( 2001 est。)

言語

ウクライナ語(公式) 67.5%、ロシア語(地域言語) 29.6%、その他(には、クリミア語の小さなタタール語、モルドバ/ルーマニア語、ハンガリー語を話す少数派が含まれます) 2.9%( 2001 est。); 注-2018年2月、憲法裁判所は、州の人口の少なくとも10%が話す言語に「地域の言語」のステータスを付与する2012年の言語法を決定しました" -裁判所、学校、その他の政府機関での使用を許可することは違憲であり、したがって法律は無効になりました。ウクライナ語は国の唯一の公式の全国言語のままです

宗教

正教会(には、ウクライナ正教会( OCU )、ウクライナ自治正教会( UAOC )、およびウクライナ正教会-モスクワ総主教庁( UOC-MP ) <TAG1が含まれます>、ウクライナギリシャカトリック、ローマカトリック、プロテスタント, イスラム教徒、ユダヤ人( 2013 est。)

人口増加率

-0.52%( 2023 est。)

政府

政府のタイプ

半大統領共和国

資本

名前: キエフ(キエフ)

行支部

国家元首: Volodymyr ZELENSKYY ( 2019年5月20日以降)
政府首脳: 2020年3月4日以降、首相デニスSHMYHAL ( )

立法府

説明: 一院制の最高評議会またはVerkhovna Rada ( 450議席。 225人のメンバーが単一議席の選挙区で単純多数決により直接選出され、225人が単一の全国選挙区で直接非公開で選出された, 党リストの比例代表投票;メンバーは5年間の任期)

経済

経済概要

中所得の非EU東ヨーロッパ経済の低下。主要な小麦生産者;産業およびエネルギー輸出国;防衛への大きな財政再配分;ロシアと戦うために毎月20億TAG1を超える米国の戦時援助を求める; 大量戦争関連の移住とホームレス

実質GDP (購買力平価)

$ 535.579億( 2021 est。)

一人当たりの実質GDP

$ 12,900 ( 2021 est。)

農産物

トウモロコシ、小麦、ジャガイモ、ヒマワリの種、テンサイ、牛乳、大麦、大豆、菜種、トマト

産業

石炭、電力、鉄および非鉄金属、機械および輸送機器、化学薬品、食品加工

輸出

$ 815億4000万( 2021 est。)

輸出-パートナー

ロシア9%、中国8%、ドイツ6%、ポーランド6%、イタリア5%、トルコ5%( 2019 )

輸出-商品

トウモロコシ、ヒマワリの種油、鉄と鉄の製品、小麦、断熱配線、菜種( 2019 )

輸入

$ 841億7,500万( 2021 est。)

輸入-パートナー

中国13%、ロシア12%、ドイツ10%、ポーランド9%、ベラルーシ7%( 2019 )

輸入-商品

精製石油、自動車、包装医薬品、石炭、天然ガス( 2019 )

為替レート

hryvnia ( UAH )米ドルあたり-
27.286 ( 2021 est。)

1928年張作霖の爆殺事件(満州某事件)から太平洋戦争終戦まで

近代日本の大きな出来事の関連図





2023/03/29

明治以降の日本のイネの品種改良と生み出されたイネたち

雄町(おまち)

明治2~3年ころ、岡山県上道郡高島村の岸本甚造が、

伯耆大山に参詣の途次、良穂2本を持ち帰ったことに始まる。


亀治

明治3~8年の間、島根県能義郡荒島村の広田亀治が、

「縮張種」から抜き穂によって選出した。


竹成(たけなり)

明治7年、三重県三重郡竹永村の松岡直右衛門が、

「糯千本種」のなかに変わり穂を発見し、選出した。


神力(しんりき)

明治10年、兵庫県揖保郡中島村の丸尾重次郎が、

有芒種「程吉」のなかから無芒の良穂を発見し、選出した。


愛国

明治15年ころ、静岡県加茂郡青市村の高橋安兵衛が、

晩稲「身上起」から選出した「身上早生」に由来する。


亀ノ尾

明治26年、山形県東田川郡大和村の阿部亀治が、

「冷立稲」のなかから選出した。


衣笠早生

明治28年、高知県長岡郡十市村の鍋島菊太郎が

「出雲早生」のなかから出穂の早い変異株を発見して「菊太郎早生」と名付け、

同郡稲生村の吉川類次郎がさらに穂選を加えて改良した。

この品種は高知県の二期作発展の因をなした。


坊主

明治28年ころ、札幌郡新琴似村の江頭庄三郎が、「赤毛」のなかから

無芒の変異株として発見した。

この品種は北海道の稲作の拡大に役立った。


明治41年に、京都府乙訓郡向田町の山本

新次郎が「日の出」のなかから変わり穂を発見し、選出した

日本へは栽培稲がどのようなルートで渡来したのか

(1)伝来の時期

日本では,いつごろからイネつくりが行なわれるようになったのだろうか。

文字による記録がない古い時代のことなので,

それを調べるには古代人の遺跡や遺物の発掘によるほかはない。

そのような考古学的な研究から,

日本のイネつくり文化(農耕文化)は,

紀元前2~3世紀に青銅や鉄の文化とともに北九州に伝えられ,

その後西日本一帯に急速にひろがり,

東日本にまで及んだと推定されている。

歴史学では,この新しい文化の時代を弥生時代と呼んでいる。

弥生時代の前,およそ1万年つづいたといわれる繩文時代の人たちは,

野生の子実を採集したり,狩猟や漁撈によったりして生活を営んでいた。

農耕文化の到来は,自然にあるものを採って食べる生活から,

一定の場所に定住して食糧をみずから生み出す生活へと,

原始社会に大変革をもたらしたにちがいない。

弥生時代にイネつくりが始まったとする考古学的な証拠には,

次の諸点があげられる。

①弥生時代の多くの遺跡から,

炭化した籾や米が多数出土する。

また弥生式土器には籾跡のついたものが,たくさん発見される。

②繩文時代にはなかった鉄の道具でつくった木製の鍬,

鋤,田下駄(面の広い泥田ではく下駄),田舟(収穫に使う小舟)や,

米を蒸したと思われる底に小穴のあいた土器などが,弥生時代に使われている。

③とくに石庖丁と呼ばれる磨製の石器は,

弥生時代の特徴をあらわす農具として有名で,

つの孔にひもを通して手先に密着させ,稲の穂をつみ取るのに用いられた。

④静岡県の登呂遺跡のような水田遺跡が発掘されている。

登呂遺跡は,弥生時代の紀元前100年ころのもので,

安倍川ぞいの湿地に400~600坪の水田が規則正しくつくられ,

今もあぜ道の両側に打ち込まれた木の杭が残されている。

稲を収めた高床式の倉庫跡も見られる。

⑤銅鐸は弥生時代の後期,紀元2~3世紀につくられたわが国独得のつりがねを横に押しつぶしたような形をした青銅の宝物で,

30~135cmの大小さまざまなものが出上しているが,

銅鐸の表面に刻まれた図柄のなかに,日と杵を使って脱穀をしている人の姿や,

高床式の倉庫などがある。

以上のような遺跡や遺物がもたらした知識から,

弥生時代の人たちのイネつくりのようすは次のようなものだっただろうと想像されている。

イネつくりは直播で,湿地に種子が播かれた。

収穫期になると,田下駄や田舟を使って石庖丁で穂だけをつみ取り,

適当な量を束ねて日に乾かし,高床式の倉床にたくわえた。

穂は必要に応じて臼に入れ,竪きねでついて脱穀した。

米は今のように煮るのではなく,底に小穴のあいた土器に入れ,

水を張った別の土器の上に乗せ,下から火を炊いて蒸した。

田植えが行なわれるようになったのは,

飛鳥時代(紀元6~7世紀)ころからといわれる。

今のところ,弥生時代以前に日本でイネつくりが行なわれていたとする考古学的な証拠は得られていない。

しかしそれ以前にもイネつくりがあったという新たな証拠が,

今後発見されないとは限らない。


(2)中国渡来説と南方渡来説

イネは日本の自然環境では自生できない。

とすれば,日本のイネとイネつくりは,

どこかの国から人によってもたらされたに違いない。

それには次のようないろいろな説がある。

①中国北部(華中)から朝鮮半島をへて日本へやってきたとする説

②中国中部(華北)の揚子江流域から海路日本に渡ったとする説

③南方から黒潮に乗って直接日本に流れついたとする説

④南方から,島伝いに日本に伝えられたとする説

こでは①,②の説を中国渡来説,③,④の説を南方渡来説と呼ぶことにしよう。

弥生時代の遺跡42か所から発見された扨と,

86か所から出上した土器についていた籾跡は,

すべて短粒型であり,当時も現在と同じ日本型のイネがつくられていたことを示す。

アジアの国々のうちで日本型のイネが分布しているところは,

中国の華中,華北と朝鮮半島とであり,

中国では今から4,000~5,000年も前からイネつくりが行なわれていたことや,

日本と朝鮮,中国との間に古くから往来があったことなどを考え合わせると,

中国渡来説が最も有力なように思われる。

このうち,華北から朝鮮半島をへて日本に渡来したとする①の説は,

弥生時代に特徴的な石庖丁が華北や朝鮮にかけて分布していて,

他の地方ではみられないことなどからも支持されている。

しかし,華北の農業の主体はコムギやコウリャンで,イネは少なく,

華北のイネつくりが朝鮮半島を南下したという証拠もない。

それはたして日本の弥生時代以前に,

朝鮮南部にイネつくりが行なわれていたかどかも不明であり,

この説を疑問視する意見もある。

これに比べると,華中・揚子江流域から海路日本に渡来したとする②の説は,

日本稲によく似たイネ(梗)がこれらの地域に多く分布していることから,

より可能性が高い。華北の緯度は日本の東北地方にほば等しく,

イネの種類も早生種に限られているが,

華中では播種期が3月初旬から5月上旬にわたり,

昔も早生種から晩生種にいたる多様な熱期のイネが存在していたものと思われる。

日本稲の幅広い熟期を考えると,

華中からいろいろの熟期のイネが日本へ入ったとみるほうが自然だろう。

日本の繩文時代の終わりころの中国は,春秋戦国の時代で,

呉や越の国が滅びていった。

これらの敗戦の流民が新しい永住の地を求めて,

イネやイネつくりの技術をもって,

大量に海を渡って日本にやってきたことも想像される。

南方渡来説は,インド,ジャワ,台湾などの在来種に,

日本型のイネが存在しない点で弱点をもつ。

しかし,

インドのアウスやジャワのプルは形態的に日本型とインド型との中間に位置し,

日本稲との親和性もかなり高いし感光性も低い。

とくにアウスは,日本の自然環境のもとでも開花結実する。

インドやジャワでは3,000年以上の古いイネつくりの歴史があり,

ジャワのプルに似たタイプのイネがフィリピンや台湾の山地にも

分布していたことを考えると,

インドやジャワから直接あるいは島伝いにこれらのイネが日本へ伝わった可能性も否定できない。

古代インドの『ヴェーダ経』のなかでは,

イネをウリヒーと呼び,これが日本のウルチと似ていることや,

ジャワでのプルのイネつくりや台湾の高砂族によるイネっくりの方法が,

穂だけをつんで束ねて日乾するなどの点で,

日本の弥生時代のイネつくりに似ていることなども,

南方渡来説を支持するものとして興味深い。

言語学では,古代の日本人の言語がインドネシア系のポリネシア語と,

朝鮮・モンゴル系の北方アルタイ語とに深いかかわりをもっことを指摘している。

また日本古来の神話のなかにも,北方系の神話と南方系の神話とが混在しているという。

これらのことは,弥生時代以前に南方系の民族が

日本に入り込んでいたことを示唆するもので,

当時すでに日本にイネが持ち込まれたことも考えられなくはない。

2万年の人類の道標

 人類の長い道のりの中で、

19世紀20世紀などは

ほんの一瞬でしかない。

そのほんの一瞬のうちに人類は

傲慢になりそして強欲になってしまった。


2023/03/28

サハリン・千島列島の領土認識概略

1875年のサンクトペテルプルク条約(樺太・千島交換条約)で、

日本は千島列島すべてを獲得し、

ロシアは樺太(サハリン)の統治権を得た。

1905年にロシアが敗北したとき、

ロシアは樺太北部の領有権を保持し、

日本が樺太南部の支配権を得た。

1945年、ソ連軍が千島列島と樺太を占領した。

樺太については日本から意義は唱えられなかった。

1946年、ソ連は千島列島全体を併合し、

南の4島に住んでいた1万7000人の日本人を追放した

1951年、サンフランシスコ講和条約により、

日本は千島列島北部を放棄したが、

南部の4島(歯舞、色丹、択捉、国後)はそうではない。

両国のあいだにはいかなる平和条約も結ばれていない。


2019年はじめ、日本の報道機関は安倍晋三首相の発言にもとづいて、

返還合意が間近にせまっていると報じたのうわさは、

ロシアのモスクワや、千島列島が属するサハリン州で抗議運動をひき起こした。

アシアの国々のイネと稲作

 (1)インドのアマンとアウス

今からおよそ3,000年前に書かれたという古代インドの「ヴェーダ経』という古書には,

イネのことがいろいろ書かれており,

インドでは3,000年以上のイネつくりの歴史をもっことがわかっている。

インドの緯度は北緯8度~37度におよび、


カシミール高原などの高地にも稲が作られている。

また,インドでは雨期の早晩,雨量の多少,

洪水などの気象条件にも大きな幅があり,

さらにアルカリ性土壌や潮水の入るところなどもあって,

イネの栽培方法や栽培時期も多様である。

そのため品種の数もきわめて多く,

生育期間も最短80日のものから最長8か月のものまである。

変わったイネでは,数フィートの深水にたえ"る深水稲"や,

20フィート(6m)の水にも育つ

"浮きイネ"などがあり,

また,ペンガル地方では優れた耐潮性品種も育成されている。


(2)ジャワのプルとチレー

インドネシアのイネつくりの歴史も古い。

ジャワでは紀元前1084年にすでにイネつくりが行なわれていたという。

ジャワとマジュラ島とが米の主産地で,

ふつうの水稲のほかに,深水稲や浮きイネなども栽培されている。

インドネシアの水稲にはプル(bulu)とチレ(tjereh)の二つのグループがあり,

プルは有芒種で,チレーは無芒種である。

チレーはインドのアマンと同様に典型的なインド型で,

インドネシアの全群島に分布している。

これに対して,プルはインド型と日本型との中間的な形態を示し,

チレーに比べて粒が短く,葉が広く,長穂で,倒伏難,脱粒難,耐病性強などの利点をもつ。

そのため低収ではあるが,シャワ,マジュラを初めとして,多くの島の一部で栽培されている。

パリ,ロンポックのように,プルだけが分布している地方もある。

プルの栽培方法は独特で,個々の穂を小刀で切り取って適当な量を束ね,

穂のまま直接精米する。また,播種は苗床に穂播きする。

プルはインドのアウスと同様,インド型と日本型との中間型の形態を示すとともに,

日本稲xチレーの低い関連性に比べ,日本稲xプルでは関連性がきわめて高い。

しかし,アウスのばあいとはちがって,チレーxプルの関連性は低い。

プルもインドのアウスと同様に,感光性の低いものが多いが,

とくに基本栄養生長性が高いことが特徴的である。

そのためプルは,日本の自然環境では開花結実が困難である。

インドネシアでのチレーとプルに似たこのような分化は,

フィリピンから台湾にまで及んでいる。

ユナイテッド・プロビンス地方で栽培されている"香稲"(におい米)も興味深い。

インドのイネの栽培は,インド全域にわたっているが,とくに東部のペンガル,マドラス,

ビハール,アッサム,オリッサなどの地方でイネつくりが盛んである。

これらの地方では年中イネがつくられ,

栽培時期によってアウス(aus;秋イネ),アマン(aman;冬イネ),

ポロー(boro;春イネ)の三つのグループに分けられている。

このうちアマンは最も重要で,

6~7月に水田に散播あるいは移植され,11~12月に収穫される。

アウスは,5~6月に畑地に散播され,8~10月に収穫される。

ポローは,最も重要性が少なく,

12~1月に洪水あとの沼地などに散播され,3~4月に収穫される。


(3)中国の梗と杣

中国河南省の仰韶(あんじゃお)で出土した土器についていた籾殻は,

地層の古さから紀元前20~30世紀(今から4,000~5,000年前)のものと推定され,

すでにそのころ,中国ではイネつくりが行なわれていたことを示している。

中国は国土が広大で,気候的にも大きな幅があり,

したがってイネつくりの時期も地域によって非常に異なっている。

中国南部(華南)では,2~3月に播種して二期作が行なわれ,

福建,広東の沿岸地域では,古くから野生稲が自生していたという記録もある。

揚子江流域を含む中国中部(華中)になると,


しだいに一期作となり,4月初めに播種される。

黄河流域の中国北部(華北)では,播種は5月上句に行なわれる。

イネの品種もきわめて多いが,

古い時代から粳(こう)(あるいは杭)と杣(せん)との区別があった。

梗は日本型のイネで,粒は丸く,炊くと粘りがあって日本稲とよく似ている。

これに対して杣は,典型的なインド型である。

梗と杣との分布をみると,華南のイネは大部分が杣で,

華中になると杣と梗とが混在し,華北では大部分が梗となる。

つまり,中国を南から北へと上るにつれて,インド型から日本型への移行がみられる。


(4)朝鮮半島のイネ

慶尚南道の金海というところの貝塚からは,1900年ほど前の焼米が出土し,

また百済の旧都である扶余城の遺跡からも,1,300年はど前の焼米が発見されている。

これらの米の形状は,いずれも日本型を示していて,

朝鮮半島でもかなり古くから日本型のイネがつくられていたことがうかがわれる。

明治43年の日韓併合以後は,多くの日本稲が導入されたが,

それ以前にあった朝鮮在来稲もすべて日本型で,その多くは有芒,長稈だった。

それらの在来稲のうち,一部の倭稲(わとう)と呼ばれる無芒のグループは,

その昔日本から入ったものといわれる。

朝鮮半島は,日本に比べて年間降雨量がきわめて少ない。

そのため,朝鮮在来稲はすべて,耐干性が強い特徴をもつ。

とくに"乾稲"と呼ばれるグループは,水分が欠乏した状態でもよく発芽する。

乾稲は,古くから天水水田に直播された。

明治の終わりごろでも,朝鮮北部では,この種のイネによる水田直播が行なわれていた。

昔は朝鮮南部でもこのようなイネつくりが行なわれていて,

しだいに田植え様式が北上したといわれている。

日本では,すでに飛鳥時代(6~7世紀)には田植えが行なわれていたが,

これが朝鮮南部に伝わって北上したという説もある。

朝鮮半島では近年まで,米租(さるべー)と呼ばれる赤米イネが多くの水田に混入していて,

栽培稲の品質を下げていた。

これらの多くは,短粒で日本型に属するものだが,

洛東江流域には長粒のインド型の赤米イネも分布していたといわれる。


(5)台湾のイネ

台湾の在来種には,昔から高砂族によって山地で陸稲としてつくられていたイネと,

17世紀の初め中国からの漢民族の移住によって,

水田技術とともに持ち込まれたイネとがある。

高砂族によってつくられていた山地の陸稲は,長芒,長粒で草丈が高く,

ジャワのプルに似た,インド型と日本型の中間型のものが多く含まれていたという。

高砂族はマレー系の人種といわれ,古い時代に南方から,

これらのイネとともに台湾にやってきたのかもしれない。

いっばう,漢民族によって平地につくられた水稲は,無芒,小粒で草丈もあまり高くない,

中国系統のインド型だった。

明治28年に日本の領王となってからは,多くの日本稲が導入され,

純系分離によって,日本稲のなかから台湾の風土に適したイネが選抜された。

それらは蓬来米(ほうらいまい)と呼ばれ,やがて台湾全土にひろがった。

台湾では”鬼稲”と呼ばれる野生稲が発見されており。

草状は斜伏型,長芒,粒色は赤く,桴は黒灰色で脱粒しやすい。

栽培稲関連性は高いが,栽培稲の直接の先祖型とは考えられていない。

2023/03/27

稲の歴史の概観

 現在我々人類が食する「お米」すなわち「栽培稲」の発祥の地はどこであろうか?

栽培稲発祥地を最初に推定したのは

アルフォンス・ルイ・ピエール・ピラム・ド・カンドルである。

彼は栽培稲の発祥地はインドだと指摘している。

では野生の稲からどのように栽培稲が発見されたのだろうか?

今日でも, インド, アフリカ, 中南米などの奥地で, 

野生稲の子実を食用とする習慣が残されているところからみて,

おそらく,原始時代にも野生稲の子実は重要な食糧源だったと想像される。

イネの栽培化の第一歩は, 野生稲の種子を人間が播種したときに踏み出されたに違いない。

播種して収穫することを知った原始時代の人たちは, 次には種子を選択することによって,

より収穫をあげうることに気づいたであろう。

このようにして,自然採種から原始的農業に移行するにつれて,

"在来種"と呼ばれる原始的な栽培稲が生まれ,やがて育種技術が確立するようになり,

"改良種"と呼ばれる近代的な品種がつくられるようになったと考えられる。

そのような原始的な栽培稲から

日本型のお米といわれるジャポニカ米と

インドや東南アジアでよく栽培職されている

インディカ米への分化はいつこと起こったのだろうか?

日本型は日本, 朝鮮, 中国北部に, 

またインド型はインド, セイロン, 台湾, 中国南部に, それぞれ分布している。



小野川村の所以

上杉米沢藩の地領は関ケ原の合戦の徳川家康の勝利により、

慶長6年(1601)米澤30万石に減封されました。

領地の範囲は旧領のうち

出羽国置賜郡(現在の山形県南部)、

陸奥国伊達、信夫両郡(福島県中通り地方北部)

の30万石となりました。

元禄15年(1702年)に領地を描いた国絵図に小野川村が確認できます。

小野川の歴史的記録は以下の様なものです。

文字

アルファベット(文字体系)

ピクトグラム( 象形文字) が個々の音を表記

する記号に発展し、最初のアルファベットが現

れた。アルファベットはどれも、紀元前1700年

ごろ地中海沿岸で発達した北セム文字に由来す

る。この文字体系がフェニキア文字への道を開

いた。フェニキア文字は、発話音にもとづいて

表記する、最初に広く用いられた文字である。

こから、ヘブライ文字や、ギリシャ文字を経

由したヨーロッパの文字体系、アラム語の文字

を経たアジアの文字体系が派生していった。





2023/03/12

歴史には、はたして軌跡とでもいうべきものがあるのだろうか。
これは、歴史自体に何らかの目的、たとえば神が定めた計画の成就や、特定の政治的ないし社会的・経済的システムの必然的な勝利といった目的をもつのかどうかという疑問と同じではない。

人類史においては国家や帝国、文化、イデオロギー、宗教がたえず生まれ、滅んでいるが、それらをみれば、歴史には何の目的も必然性もないことがわかる。しかしながら、歴史的出来事の一貫性のない皮膜の下で、人類史はほば途絶えることなく明確な軌跡を描いてきた。約1万年前に最終氷期が終わって以降、地球上の人口は増加傾向を示し、都市や経済も発展した。
文化・文明間の交流が拡大し、社会や経済の複雑化ないし高度化もほとんど妨げられることなく進行していった。
本書は世界の歴史のこのような展開を、地図や解説文、年表、さらに写真や図版で容易に一望できるようにしたものである。
人類の歴史は、生産形態の数多くの段階的変化、すなわち社会的・文化的・政治的変化を促し、たえず世界をつく り変えた大衆運動を引き起こし、あるいはそれを可能にした変化によって特徴づけられてきた。
先史時代の大半にわたって、人々はみな野生動物の狩猟と食べられる自生植物の採集によって生きていた。

彼らの数は、他の動物同様、自然環境からの恵み次第だった。
氷河期が終わると、世界各地の人々の集団は、それぞれが食料自給を確実にするための手段として農耕をはじめるようになる。
こうした最古の農耕社会が中東地域で興ったのは、けっして偶然ではない。
そこは栽培や飼育に適した植物や動物が世界でもっとも豊富だったからである。
この発展は人口の膨大な増加を可能にするもので、人類史における最初の段階的変化といえる。
たしかに土壌の肥沃さには限度があったが、人口がいずれ土地の供給カを超えてしまうかもしれないという予測は、 なおも現実的なものとはなっていない。
選択育種や遺伝子工学、灌漑、機械化農業、さらに合成化学肥料などによって作物の高収量化や家畜の増産が図られ、人口増加を十二分にまかなえるだけの農業生産が可能になっているからだ。
もはや飢饉と疫病は、人口増加にとって一時的な揺り戻しでしかなくなった。
農耕民たちが生活に必要以上の食料を生みだすようになると、人類史に第2の段階的変化が訪れる。

余剰食料が最初の富となり、その余剰を管理する者が共同体を支配する権力を手に入れ、階級社会や中央集権的な政治を指導するようになった。
食料に余剰が生じたということは、皆が農耕に従事する必要がなくなったということでもある。
当初こそ少数だったものの、人々はやがて工芸品の生産や交易、軍事的訓練、行政、宗教どにすべての時間を捧げることができるまでにった。

これらの社会的・経済的変化によって、初期には環境が集約的な農業にもっとも適した温暖な土地で、都市や国家、さらに文明が発展する。
最古の文明は独自に発展したが、その影響が拡大するにつれて、交易や外交、戦争、移住などを通して互いに結びつくようになった。
こうした結びつきにより、さまざまな考えや技術革新の拡大が促された。
たしかに個々の文明は袞亡したかもしれないが、文明自体が世界的に袞亡することはけっしてなかった。
歴史の軌跡は、より複雑で相互に結びついた文明へと向かっていったのである。
各地の都市は当初から文明の中心地であったが、人々の大半はなおも地方に住み、土地を耕し続けた。

一方、都市人口の割合は、18世紀に産業革命が始まるとともに増加していく。
これが人類史における第3の段階的変化であり、そこでは製造業やサービス業が農業以上に富を得る重要な手段となったのである。
そして、向上した農業の効率化に下支えされたこの変化によって、農民は上地から解放されて都市の工場へと向かった。
イギリスを皮きりに こうして労働者は仕事を求めて地方から都市へと移り住み、都市の爆発的な拡大を引き起こした。
19世紀になると、産業革命の波が大陸ヨーロッパと北米にまで広まり、さらに20世紀には、その波は南米やアジアにまで拡大した。

アフリカだけはまだ十分な工業化の恩恵を受けていないが、こですら都市への人口移入の波は押し寄せている。
2005年までに、狩猟や採集といった先祖伝来の生活様式は事実上消滅し、一方、世界人口の半分以上が都市に住むようになっているのだ。
今日、近代的な学問の専門化が進んで、小・中・高校や大学でのカリキュラムが狭められた結果、根本的かっグローバルな歴史の軌跡はあまりにも不鮮明になっている。
そこでは歴史的な出来事のより広範な背景が見失われてしまっているのである。
本書はこの見失われた背景をグローバルに提示する。
世界の歴史を多少とも地域ごとに区分けする伝統的な世界歴史地図とは異なり、本書はさまざまな時代の世界全体を見通した50葉以上の一連の地図に完全にもとづいている。

これらの地図では、初期人類の進化や移動ないし移住、農耕・農業の拡大、文化・国家・帝国の発展などを図表を用いて示している。
主題別の地図はまた世界の宗教や表記法、移動・移住、広域的な交易の発展をあとづける。
さらに各時代の世界人ロと5大都市(圏)を示した統計図は、きわめて重要な世界の歴史の軌跡を強調し、それぞれの年表は、慎重を期して選んだ挿絵ともども、政治や宗教、技術、芸術、建築の時代ごとの発展を示している。
本書は、これらすべての構成要素を結びつけて、人類史全体に対する比類のない俯瞰図をつくりあげているのである。













石器時代からコンピュータ時代まて
1,フランス南西部ブラッサンプイ出土の「ヴィーナス」像。
約2万5000年前


2,エジプトのギザから出土したメンカウラー王と両脇二柱の女神からなる三神一座像。
前2490ー前2472年頃


3,インドネシア・ジャワ島のボロブドゥール寺院とブッダ像。
900年頃

4,スルタンのアフメト1世がイスタンプールに建立したプルーモスク。
1609ー16年


5,インド南部ハンピのヴィルバクシャにあるヒンドゥー寺院。
14世紀


6,ジュセッペ・カスティリオーネ作『儀礼用甲冑を着けた乾隆帝』。
18世紀中葉


7,ハンス・ホルバイン(子)作『大使たち。
1533年、ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵


8,アップル社のタブレットコンピュータ「iPad」。
2016年モデル

2023/03/11

中国の歴代王朝と北方騎馬民族


中華民国建国の1912年まで、
シナ人=漢人が支配者となった歴史は
漢王朝の405年間と明王朝の276年で、
わずか合計681年。



2023/03/10

神達明神(かんだつみょうじん) 旧町名由来 御清水町

 祭神は仇討で有名な、曽我十郎祐成(そがじゅうろすけなり そ)・曽我五郎時到(そがごろうときむね)。

当社縁起によれば、直江兼続(なおえかげつぐ)景勝(かげかつ)に従い上洛した折、 富士山麓の社から曽我兄弟の木像を譲り受け、 実父・樋口兼豊(ひぐちかねとよ)が守る 越後の直峰城(のうみねじょう)に社を創建したという。 上杉家の移封に伴い米沢に移り、樋口家屋敷に隣接するこの地に祀った。

 明治12年に村社となり、現在の社殿は大正6年の米沢大火後に再建したものである。神達神社の名は、 樋口越後上田の庄で領した神立村(新潟県湯沢町)の神立明神に由来する。



旧町名由来 御清水町(おしみずまち)
(現町名 城北一・二丁目・中央六丁目)
米沢城の北側に位置する侍町で、 主に与板組に属する中級家臣団が居住した。町名の由来は、町の北端にあっ た良質の清水に由来する。江戸時代は、この清水から汲まれた水が米沢城内の謙信を祀る御堂に供えられた。



Oshimizu-mach Town
A samurai town located to the north side of Yonezawa Castle, middle-class reamers belonging mainly to the Yoita group lived here. The origin of the town's name was the clean, pure water located at the town's north edge. During the Edo period, this water was given as an offering to in the enshrinement hall of Yonezawa Castle which is dedicated to Uesugi Kenshin.

2023/03/09

周王朝

 周(しゅう)

~前221年
牧野(ぼくや)の戦いで殷を破った武王が打ち立てた周王朝は、800年の長きにわたって続いた。もっとも、 その大半を通じて周王朝の支配は名ばかりであり、諸侯は建前として周に帰服しながら実際は自主的に行動していた。歴史家はこの時代を西周(~前770年)と東周(前 770~前256年)の2つに区分する。また、東周はさらに春秋時代(前 770一前403年)と戦国時代(前 403~前221年)に分けられる。ちなみに、孔子や老子といった思想家がのちに中国社会を形づくる さまざまな原則を確立させたのは、この周代においてである。






殷(商)王朝

 殷(商)いん

殷(商)は確かな考古学的証拠によって実在が裏づけられる最古の中国王朝である。殷を治めていた湯王(とうおう)が夏王朝の専制君主、桀(けつ)を倒して打ち立てたとされる。湯王に続く歴代の股王は多くの戦争を戦い、馬に牽かせる戦車、青銅の武器、そして弓を活用した。この王朝の遺物として、王家の陵墓や銅器、古代の文字が刻まれた甲骨などが今に伝わる。暴政をほしい ままにした帝辛(ていしん)が周の武王(ぶおう)に敗れ たことで、殷王朝は滅びた。


夏王朝

 夏(考古学上の発見と立証はされていない)

伝統的な中国史によれば、中国建国の祖は“王朝以前”の中国を 統治したいわゆる「五帝」の最初の一人、黄帝(こうてい)とされる。中国最初の王朝は前2070年頃、禹によって 打ち立てられたとされる。禹は玉座を息子に譲ることで、帝位継承 の原則を創始する。この王朝は禹が属していた氏族の名にちなんで夏と命名された。14人の統治者を出した夏王朝の実在を疑い、神話上の存在にすぎないと考える歴史家もいる。



2023/03/08

中国歴代王朝

夏(か)

(考古学上の発見と立証はされていない)

伝統的な中国史によれば、中国建国の祖は“王朝以前”の中国を 統治したいわゆる「五帝」の最初の一人、黄帝(こうてい)とされる。中国最初の王朝は前2070年頃、禹によって 打ち立てられたとされる。禹は玉座を息子に譲ることで、帝位継承 の原則を創始する。この王朝は禹が属していた氏族の名にちなんで夏と命名された。14人の統治者を出した夏王朝の実在を疑い、神話上の存在にすぎないと考える歴史家もいる。




殷(商)いん
殷(商)は確かな考古学的証拠によって実在が裏づけられる最古の中国王朝である。殷を治めていた湯王(とうおう)が夏王朝の専制君主、桀(けつ)を倒して打ち立てたとされる。湯王に続く歴代の股王は多くの戦争を戦い、馬に牽かせる戦車、青銅の武器、そして弓を活用した。この王朝の遺物として、王家の陵墓や銅器、古代の文字が刻まれた甲骨などが今に伝わる。暴政をほしい ままにした帝辛(ていしん)が周の武王(ぶおう)に敗れ たことで、殷王朝は滅びた。

周(しゅう)
~前221年
牧野(ぼくや)の戦いで殷を破った武王が打ち立てた周王朝は、800年の長きにわたって続いた。もっとも、 その大半を通じて周王朝の支配は名ばかりであり、諸侯は建前として周に帰服しながら実際は自主的に行動していた。歴史家はこの時代を西周(~前770年)と東周(前 770~前256年)の2つに区分する。また、東周はさらに春秋時代(前 770一前403年)と戦国時代(前 403~前221年)に分けられる。ちなみに、孔子や老子といった思想家がのちに中国社会を形づくる さまざまな原則を確立させたのは、この周代においてである。

秦(しん )
前2221年~全206年
周の滅亡後に勃発した内戦を勝ち上がったのが、秦王の嬴政(えいせい)である。嬴政は自身の絶対的支配のもとに中国を統一し、始皇帝、すな わち「最初の皇帝」を名乗った。始皇帝は人々に労役を課し、万里の長城を築いて辺境の守りを固め、素焼きの兵士像数千体に守られた広大な陵墓を造営した。前 210年に始皇帝が没すると、相次ぐ反乱により、後継者たちはことごとく権力中枢から排除された。

漢(かん)
前202~後220年
ローマ帝国と時代を同じくする漢王朝は、4世紀にわたって中国を支配した。卑賎の生まれから反乱に身を投じ、やがて高祖帝として即位した劉邦(りゅうほう)を始祖とする。漢代は国家が統合され文化が興隆し た黄金時代として、後世の中国人から理想化された。歴代皇帝は首都長安から、儒教思想に基づいて中央集権国家を統治している。漢は帝国の版図を押し広げ、その影響カを中央アジアにまで及ぼすと共に、シルクロード(絹の道)によって西欧との交易を振興した。前漢(中国では「西漢」)と呼ぱれる漢王朝の第1期は後8年、王莽が帝位を纂奪して新という短命王朝を立てたことで終わりを告げる。しかし25年には漢王朝が再興し、後漢(東漢)として洛陽に都を定めた。184年に起きた農民反乱、黄巾の乱により弱体化した後漢は、各地の群雄が覇を競うな かで瓦解した。

分裂の時代
220~581年
220年、漢朝最後の工程が退位させられると、魏、呉、蜀の三国 が覇権を争う時代に入る。280年には西晋が中国の再統一を果たすも長続きしなかった。4世紀になると華北は侵入者に占領され、以後、短命な支配が繰り返された。 一方、華南では南京を首都とする王朝が何度か交代したものの、北部に比べれば安定していた。

隋(ずい)
581~618年
数世紀に及ぶ分裂の時代を経て中国を再統一したのが隋王朝であ る。556年、北周が華北の大国の地位を西魏から奪い取ったのだが、581年、その北周の将軍、楊堅(ようけん)が皇帝に取って代わり、華南を
平定した。楊堅(ようけん)ー文帝とその後継者である楊広(ようこう)ー楊帯(ようだい) は次々と
大規模な建設事業に着手し、さらにはベトナムと朝鮮への遠征に乗り出した。 こうした施政で民衆に多大な負担を強いたことが、結局は反乱を招き、王朝の滅亡につながった。

唐(とう)
618 -907年
唐王朝は自ら皇帝となって権カを掌握した李淵(りえん)ー高祖帝によっ て打ち立てられた。高祖帝の子で 妥協を知らない太宗は、隋が整え た基盤の上に強力な中央集権国家を築き上げ、中央アジアへの外征くを繰り返した。690年からは則天武后(そくてんぶこう)ー武則天が国号を周(しゅう)に改めて統治を行うが、705年には唐朝が復活する。玄宗帝(げんそう)の治下(712 -756年)、中国は経済文化の両面で最盛期を迎える。しかし755年、将軍の安禄山(あんろくざん)が起こした反乱(安史の乱)により帝国は荒廃した。 このときは滅亡こそ免れたものの、9世紀半ば以降唐朝は衰え、回復することはなかった。

五代十国時代
907-960年
唐の滅亡後、中国は複数の実力者が独立を宣言する内乱の時代に 突入する。国土の南半分には10の王国が並び立ち、北半分では後周を最後とする5つの王朝(五代)が交代したが、いずれも中国の実質的主導権を握ることはなかった。一方、北辺では遊牧民の契丹人(きったんじん)が遼王朝(916一1125年)を打 ち立て、現在の中国東北部からモ ンゴルと北朝鮮にまたがる地域を 支配した。

宋(そう)
960- 1279年
後周から権カを奪った趙匡胤(ちょうきょういん)は宋王朝を打ち立てた。のちに太祖と呼ばれるこの皇帝は中国を統一 したが、唐朝歴代の皇帝に比べると、支配した版図は小さかった。 宋帝国は士大夫(したいふ)が担う官僚機構によって統治が行き届き、経済的な繁栄を見る。火薬、紙幣、方位磁石といった大きな技術革新は、いずれも宋代に起きている。もっとも、この帝国は草原の騎馬民族の攻撃に対しては終始一貫して脆弱 であった。1115年、女真人(じょしんじん)は金(きん)王 朝を開き、契丹人の遼を滅ぼして、 1127年には宋の都、開封(かいほう)を攻め落とした。宋は南に退くことで滅亡を免れ(以後、南宋と呼ばれる)、膨張する諸都市と海上貿易を支配 した。しかし、北方からモンゴル人という新たな侵略者が現れ、モンゴルは1234年に金を滅ぼし、 1279年には南宋を征服した。

元(げん)
1271~1368年
フビライ=ハン率いるモンゴル人は、中国全土を征服した最初の異民族だった。フビライは首都大都(北京)から統治を行い、漢人を官僚や顧間に取り立てる一方、 実権はモンゴル人で握って離さな かった。武力による拡張政策をと ったが、日本には2度侵攻してい ずれも失敗に終わった。東南アジ アにも派兵したが一部で敗退して いる。この時代、元朝のみならず モンゴル帝国全域で国際交易が急速に発展し、シルクロードによっ て中国と西アジア、さらにョーロ ッパが結ばれた。1294年にフビライが死去すると、王朝は衰退する。 疫病の流行や洪水、重税などが農民の反乱を誘発し、異民族支配に対する民衆の怒りをかき立てた。やがてモンゴル人は中国の大部分 の支配を失い、1368年には北京か らの撤退を余儀なくされた。

明(みん)
1368- 1644年
農民が反乱を起こした紅巾の乱の指導者、朱元璋(しゅげんしょう)が打ち立てた明王朝は、科挙による官僚登用をはじめとする中国の従来の伝統を復活させた。永楽帝(えいらくてい)が1北京に新しい都を築き、インド洋に向けて強大な艦隊を送り出すな ど積極的な施政を行った。しかし永楽帝の治世が終わると明朝は守勢に転じ、万里の長城を延長して自給自足の国家運営を鮮明にし た。16世紀に海を渡ってきた欧州の商人たちが不信感と敵意を向けられたのは、そのためである。明朝の支配下で中国は活気あふ れる都市文化を謳歌し、商業と手工業の隆昌を見るも、政治の質はしばしば低く、宦官(かんがん)たちと儒学者である官僚たち (士大夫)の対立 に悩まされた。相次ぐ自然災害と無法状態の蔓延によって疲弊した 明朝は、1644年に反乱で倒され、北京は北辺から侵攻してきた満洲人に占領された。

清(しん)
1644~ 1912年
中国最後の王朝はマンチュリアに居住していた満洲人によって打 ち立てられた。1636年、万里の長城の北で清朝成立を宣言した満洲人は、1644年に長城を越えて北京を占領し、中国全土に覇を唱えた。明の忠臣たちを押さえ込み、全国に清の制度を課す一方、満洲人は漢人とは文化的に明確に異なる民族集団でありながら、儒教の伝統を数多く取り入れた。帝国は繁栄し、軍事遠征によってその版図は中央アジアの深部まで拡大した。 しかし19世紀以降、経済が落ち込むと反乱が相次ぎ、特に太平天国乱(ていへいてんごく)の乱では危うく帝国が滅びか けた。西欧列強と日本は王朝の弱体化につけ込み、相次ぐ戦争で中国を打ち負かしては、過酷な講和条件を押しつけた。清朝による近代化の失敗は、帝国を支える柱を徐々に蝕んでいく。最後の皇帝、薄儀(ふぎ)は中国が共和制国家(中華民国)となった1912年に退位させ られた。