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2023/04/08

加藤完治の満州開拓開始にいたる概略とその意義

満洲開拓は当時あらゆる階層の人々が、 不可能だといっていた日本人の満洲農業移民が、 満洲の荒野を開いて、人類の生活に寸時も欠く事の出来ない、 衣食住の原料生産を立派に成し遂げたという事実を記録した実に大切な書物である。 その頃、日本人の満洲農業移民は無意味だ、絶対不可能だという愚論が、
満洲現地においてはもちろん、日本内地においても、 時の大蔵大臣高橋是清翁をはじめとして、陸軍大臣、ま た殖民に一番深い関係のある拓務大までもが、皆駄目だといっていたのである。 かかる際に日本農民が現地に乗り込んで行って、あらゆる困難を克服して、 立派に彼の地に落ち着くようになったのは、何といっても画期的な大事業であった。 不幸にして世界大戦において、日本が破れ、かっ満洲国も減亡したために、 成功しつつあったこの大事業も中途で挫折の止むなきに至り、 内地より移住した多くの日本農民は、悲慘な目にあって、 辛うじて日本に帰って来たのであけれども、あれ程御歴々が頑固に主張した、 日本人の満洲農業移民不可能論を見事打ち破って、 事実をもってその可能なことを示した功は、絶対に忘れてはならない。 現在は日本農民による満洲開発の不可能を主張する人など一人もあるまい。 しかしその当時のことを思うと、内外地における御歴々は皆反対だった。 そもそも満洲農業移民が駄目だという主張は、 いわゆる農業経済を教える欧米各国に横行していた企業的農業論である。 気候も悪いし、土壤の性質も日本内地とは違うし、 病害虫なども多い彼の地に日本農民が行って、 しかも土着の満人農民は生活程度が極めて低く、よく悪い気候を克服し、 男女ともによく働く、彼等の中に日本農民が入って、とても対抗できるものではない。 況んや匪賊の横行する所で、日本人が落ち着いて働けるものではないというのである。 しかしながらこれは日本農家の実情をよく知らぬ人々の農業経済論であって、 日本農民は一定の土地、しかも二、三町歩位の小さな土地で、 草木の適当に繁る所でさえあれば、 これを耕作して立派に生活して行くだけのカのある農民なのである。 それなのに欧米人の農業経済論にふり回わされて、 日本農民は満洲には移住できないと主張したのである。 その不可能論を打ち破ったあらましを、ここに書いておきたいと思う。 そして、一国の国民の前途を明かるくもし、また暗くもする、 我が国の責任ある立場にある方々の御参考に供したいのである。 多くの不可能論者の中に陸軍大臣荒木貞夫大将もおったし、 大蔵大臣高橋是清翁もおった事は先に述べたが、 是等の方々は多くの部下や友人等のいう事を信じ切っておられたものと思う。 それから満洲の現地には松岡満鉄総裁を中心として、 満洲国の官吏、関東軍の軍人達の大部分、なお特別な団体で東亜連盟会員の幹部等がおった。 僕は高橋大蔵大臣に会う前に荒木陸軍大臣に会ってお話しをした。 それは昭和七年の正月二日朝、僕が東京の国高販売部にいると、 山形から角田一郎という予備陸軍中佐が訪ねて来て、 「自分は山形の者だが、先生の満洲移民の必要性、可能性を聞き、真にもっともだと思って、陸軍省に行って同期生の永田軍務局長に会ったり、多くの後輩などにも説いたが、 誰も耳をかたむけてくれない。 私では駄目だから一つ先生を煩わして、陸軍を説き伏せたいと思う」というので、 その事なら何処へでも行くから連れて行けと答えると、 角田中佐は盛んに電話をかけていたが、陸軍大臣官邸に行ってくれという。 そこで乱暴な服装で二人して大臣官邸に行った。 そして来意を告げると、副官はちょっと驚いたような様子だったが、 奥に入って大将に報告したのであろう、大臣の面会室に入れられた。 待っていると荒木大将が出て来て、「何用ですか」と問われたから、 早速満洲移民問題をお話しすると、大将は僕も駄目だと思うと答えられた。 そこで二人の間に満洲移民についての大議論がはじまった。 しかし大将は真面目な人だから、僕のいう事に対して、疑問を一つ一つ並べて質問した。 話している中に僕の意見がよくわかられて、 非常に喜ばれ一々個条書きにして手帳に書きとられていた。 最後に「これを決行するとしたら僕は何を受持てばよいか、そして君は何を受持つか」 といわれたから、大臣は移住地の獲得、移民宿舎の設立(借入)、 移住者の一年以上の食物の準備、匪賊等に対する防禦用武器の供給、 軍医の選定、在郷軍人移住者の定等をお願いした。 そして僕の分担は出て来た移住者の訓練、これで移民は決行し得ると答えたら、 よく諒解して、しっかりやろうといっつて別れた。 しかし荒木陸軍大臣が可能論者になられても、 大蔵大臣が可能論者にならなければ移民の断行が出来ないので、 その高橋大蔵大臣を説得しなくてはならない。 その大臣が最も頑固な満洲移民不可能論者なのである。 満洲移民については石黒忠篤兄から大臣に話しをしたものと思うが、 那須皓博士や橋本伝左衛門博士が満洲移民可能論を話しに行ったら、 君等は移民現地に行って見て来たのかと質問されたので、 両博士とも「まだ現地には行っておりません」と答えたら、 現地に行かないでいう移民論など聞く必要なしとて、 一言のもとに断わられたと僕は聞いていたので、腹をきめていた。 拓務省と石黒さんから連絡があって、大蔵大臣に会いに行けというので、 満蒙移民可能論を話しに出かけた。大臣のいる大きな室に通されて待っていると、 大臣は一人の秘書をつれて出て来られて、 何用かというから日本農民の満洲移民の可能性を申し上げに来たというと、 いきなり右腕をまくって「君は現地に行ったか」と大きな声で怒鳴りつけた。 秘書はこれを見て直ぐ室を出て行ったので、僕と大臣と二人きりになった。 そこで僕は「現地に行って来ました」といったら、今度はいよいよ質問をはじめたから、 僕は心ひそかに「しめた」と思って、静かに大臣の質問に対して全部一つ一つ説きあかして、満蒙移民は何でもなく確かに出来ますと述べた。 すると大臣はいきなり僕は忙しいからといって、自分の机の方に行ってしまったから、 僕も後から追いかけてその前に行って、 「大臣どうか日本農民の為めに満蒙移民を断行して下さい」と頼んだら、 それでは試験移民として二回に分けて千人ばかりやって見よう、 成績が上ったら続けてやろう、但し悪ければ取り止めにするといった。 僕はこの返事をきいて大喜びで拓務省と石黒さんに報告した。 これが高橋大蔵大臣との話し会いのあらましである。 もう一つは松岡満鉄総裁との対談、 これは松岡総裁が同社員と共に日本農民の満蒙移民は駄目だといっていたので、 彼を説得するよう参謀本部の元関東軍作戦課長石原第2課長から頼まれたのである。 松岡総裁を説得するために僕は大連に乗り込んで、満鉄本社で総裁に会った。 そこで満蒙農業移民の不可能論を松岡総裁はとうとう三時間以上も弁じたて タ方になった。そして「加藤さんもうわかたでしよう」というから、 貴下一人で三時間以上も話されて、僕はまだ一口も話しをしない。 僕はわざわざこの事を話すために内地から来たのに一言も話させないのはひどいというと、 それなら明日星ヶ浦の料亭で昼食をすました後で聞こうという事になった。 僕はその晩旅館に帰って松岡総裁が述べた不可能論を一つ一つ個条書きにして、 その駁論を書きつけておいた。 翌日星ヶ浦の料亭で松岡総裁に僕の可能論を徹底的にやった。 そして最後に在郷軍人を集めて各地に移民させたが、 入植者の3分の2位は大体農業移民として残るが、 あとは金儲けをやりたいと思ったりして転業をしてしまう、 それで考えた結果青少年移民をする方が成功すると思うから、 これを断行したいと述べたら、松岡総裁は大賛成と喜んでくれた。 そして僕で出来ることなら何なりと応援するというので、 大訓練所の建設をお願いして承諾を得たのである。 最後に日本農民の満蒙農業移民可能論を極力応援した、 否むしろ主張した人々を申上げてみると、 頭とロで主張した方々の主なる人々は僕の親友である、 石黒、那須、小平、橋本の四人をはじめ日本の農業界の多くの方々である。 また手と足とで主張した人々は僕の弟分や教え子で、 日韓合併時代に朝鮮の群山や平康という、実にひどい荒地に20代の若夫婦で乗り込んで、 皆立派な田畑山林に仕上げた人々、それから満洲試験移民がはじまった時に、 僕に代って匪賊のおる、しかもひどい未耕地に乗り込んで、 匪賊や病魔と戦いながら立派な耕地にした親友等々の血と汗の結晶が、 満蒙農業移民の可能を強く日本国民のみならず、 在満並びに欧米露の人々にさえも示した事を忘れてはならない。 要するに日本農民の満蒙農業移民は、絶対に可能なりと極印を押さしたことは、 戦争で負けて出来た耕地はとりあげられ、また多くの可愛いし子供等のみならず、 その父母兄弟の多くの人が生命財産を失った悲しみを以てしても、 替え難い大事業をして下さったのである。 我等は一面悲しむと同時に、他面ほんとうに有り難く感謝すべきだと信ずる。 生死不ニ病亡生殺悉是一陣之風 (生死に関わる全てのことが、一陣の風のように軽々と変わってしまう)


昭和41年月3 加藤 完治

2023/03/29

日本へは栽培稲がどのようなルートで渡来したのか

(1)伝来の時期

日本では,いつごろからイネつくりが行なわれるようになったのだろうか。

文字による記録がない古い時代のことなので,

それを調べるには古代人の遺跡や遺物の発掘によるほかはない。

そのような考古学的な研究から,

日本のイネつくり文化(農耕文化)は,

紀元前2~3世紀に青銅や鉄の文化とともに北九州に伝えられ,

その後西日本一帯に急速にひろがり,

東日本にまで及んだと推定されている。

歴史学では,この新しい文化の時代を弥生時代と呼んでいる。

弥生時代の前,およそ1万年つづいたといわれる繩文時代の人たちは,

野生の子実を採集したり,狩猟や漁撈によったりして生活を営んでいた。

農耕文化の到来は,自然にあるものを採って食べる生活から,

一定の場所に定住して食糧をみずから生み出す生活へと,

原始社会に大変革をもたらしたにちがいない。

弥生時代にイネつくりが始まったとする考古学的な証拠には,

次の諸点があげられる。

①弥生時代の多くの遺跡から,

炭化した籾や米が多数出土する。

また弥生式土器には籾跡のついたものが,たくさん発見される。

②繩文時代にはなかった鉄の道具でつくった木製の鍬,

鋤,田下駄(面の広い泥田ではく下駄),田舟(収穫に使う小舟)や,

米を蒸したと思われる底に小穴のあいた土器などが,弥生時代に使われている。

③とくに石庖丁と呼ばれる磨製の石器は,

弥生時代の特徴をあらわす農具として有名で,

つの孔にひもを通して手先に密着させ,稲の穂をつみ取るのに用いられた。

④静岡県の登呂遺跡のような水田遺跡が発掘されている。

登呂遺跡は,弥生時代の紀元前100年ころのもので,

安倍川ぞいの湿地に400~600坪の水田が規則正しくつくられ,

今もあぜ道の両側に打ち込まれた木の杭が残されている。

稲を収めた高床式の倉庫跡も見られる。

⑤銅鐸は弥生時代の後期,紀元2~3世紀につくられたわが国独得のつりがねを横に押しつぶしたような形をした青銅の宝物で,

30~135cmの大小さまざまなものが出上しているが,

銅鐸の表面に刻まれた図柄のなかに,日と杵を使って脱穀をしている人の姿や,

高床式の倉庫などがある。

以上のような遺跡や遺物がもたらした知識から,

弥生時代の人たちのイネつくりのようすは次のようなものだっただろうと想像されている。

イネつくりは直播で,湿地に種子が播かれた。

収穫期になると,田下駄や田舟を使って石庖丁で穂だけをつみ取り,

適当な量を束ねて日に乾かし,高床式の倉床にたくわえた。

穂は必要に応じて臼に入れ,竪きねでついて脱穀した。

米は今のように煮るのではなく,底に小穴のあいた土器に入れ,

水を張った別の土器の上に乗せ,下から火を炊いて蒸した。

田植えが行なわれるようになったのは,

飛鳥時代(紀元6~7世紀)ころからといわれる。

今のところ,弥生時代以前に日本でイネつくりが行なわれていたとする考古学的な証拠は得られていない。

しかしそれ以前にもイネつくりがあったという新たな証拠が,

今後発見されないとは限らない。


(2)中国渡来説と南方渡来説

イネは日本の自然環境では自生できない。

とすれば,日本のイネとイネつくりは,

どこかの国から人によってもたらされたに違いない。

それには次のようないろいろな説がある。

①中国北部(華中)から朝鮮半島をへて日本へやってきたとする説

②中国中部(華北)の揚子江流域から海路日本に渡ったとする説

③南方から黒潮に乗って直接日本に流れついたとする説

④南方から,島伝いに日本に伝えられたとする説

こでは①,②の説を中国渡来説,③,④の説を南方渡来説と呼ぶことにしよう。

弥生時代の遺跡42か所から発見された扨と,

86か所から出上した土器についていた籾跡は,

すべて短粒型であり,当時も現在と同じ日本型のイネがつくられていたことを示す。

アジアの国々のうちで日本型のイネが分布しているところは,

中国の華中,華北と朝鮮半島とであり,

中国では今から4,000~5,000年も前からイネつくりが行なわれていたことや,

日本と朝鮮,中国との間に古くから往来があったことなどを考え合わせると,

中国渡来説が最も有力なように思われる。

このうち,華北から朝鮮半島をへて日本に渡来したとする①の説は,

弥生時代に特徴的な石庖丁が華北や朝鮮にかけて分布していて,

他の地方ではみられないことなどからも支持されている。

しかし,華北の農業の主体はコムギやコウリャンで,イネは少なく,

華北のイネつくりが朝鮮半島を南下したという証拠もない。

それはたして日本の弥生時代以前に,

朝鮮南部にイネつくりが行なわれていたかどかも不明であり,

この説を疑問視する意見もある。

これに比べると,華中・揚子江流域から海路日本に渡来したとする②の説は,

日本稲によく似たイネ(梗)がこれらの地域に多く分布していることから,

より可能性が高い。華北の緯度は日本の東北地方にほば等しく,

イネの種類も早生種に限られているが,

華中では播種期が3月初旬から5月上旬にわたり,

昔も早生種から晩生種にいたる多様な熱期のイネが存在していたものと思われる。

日本稲の幅広い熟期を考えると,

華中からいろいろの熟期のイネが日本へ入ったとみるほうが自然だろう。

日本の繩文時代の終わりころの中国は,春秋戦国の時代で,

呉や越の国が滅びていった。

これらの敗戦の流民が新しい永住の地を求めて,

イネやイネつくりの技術をもって,

大量に海を渡って日本にやってきたことも想像される。

南方渡来説は,インド,ジャワ,台湾などの在来種に,

日本型のイネが存在しない点で弱点をもつ。

しかし,

インドのアウスやジャワのプルは形態的に日本型とインド型との中間に位置し,

日本稲との親和性もかなり高いし感光性も低い。

とくにアウスは,日本の自然環境のもとでも開花結実する。

インドやジャワでは3,000年以上の古いイネつくりの歴史があり,

ジャワのプルに似たタイプのイネがフィリピンや台湾の山地にも

分布していたことを考えると,

インドやジャワから直接あるいは島伝いにこれらのイネが日本へ伝わった可能性も否定できない。

古代インドの『ヴェーダ経』のなかでは,

イネをウリヒーと呼び,これが日本のウルチと似ていることや,

ジャワでのプルのイネつくりや台湾の高砂族によるイネっくりの方法が,

穂だけをつんで束ねて日乾するなどの点で,

日本の弥生時代のイネつくりに似ていることなども,

南方渡来説を支持するものとして興味深い。

言語学では,古代の日本人の言語がインドネシア系のポリネシア語と,

朝鮮・モンゴル系の北方アルタイ語とに深いかかわりをもっことを指摘している。

また日本古来の神話のなかにも,北方系の神話と南方系の神話とが混在しているという。

これらのことは,弥生時代以前に南方系の民族が

日本に入り込んでいたことを示唆するもので,

当時すでに日本にイネが持ち込まれたことも考えられなくはない。

2023/03/28

アシアの国々のイネと稲作

 (1)インドのアマンとアウス

今からおよそ3,000年前に書かれたという古代インドの「ヴェーダ経』という古書には,

イネのことがいろいろ書かれており,

インドでは3,000年以上のイネつくりの歴史をもっことがわかっている。

インドの緯度は北緯8度~37度におよび、


カシミール高原などの高地にも稲が作られている。

また,インドでは雨期の早晩,雨量の多少,

洪水などの気象条件にも大きな幅があり,

さらにアルカリ性土壌や潮水の入るところなどもあって,

イネの栽培方法や栽培時期も多様である。

そのため品種の数もきわめて多く,

生育期間も最短80日のものから最長8か月のものまである。

変わったイネでは,数フィートの深水にたえ"る深水稲"や,

20フィート(6m)の水にも育つ

"浮きイネ"などがあり,

また,ペンガル地方では優れた耐潮性品種も育成されている。


(2)ジャワのプルとチレー

インドネシアのイネつくりの歴史も古い。

ジャワでは紀元前1084年にすでにイネつくりが行なわれていたという。

ジャワとマジュラ島とが米の主産地で,

ふつうの水稲のほかに,深水稲や浮きイネなども栽培されている。

インドネシアの水稲にはプル(bulu)とチレ(tjereh)の二つのグループがあり,

プルは有芒種で,チレーは無芒種である。

チレーはインドのアマンと同様に典型的なインド型で,

インドネシアの全群島に分布している。

これに対して,プルはインド型と日本型との中間的な形態を示し,

チレーに比べて粒が短く,葉が広く,長穂で,倒伏難,脱粒難,耐病性強などの利点をもつ。

そのため低収ではあるが,シャワ,マジュラを初めとして,多くの島の一部で栽培されている。

パリ,ロンポックのように,プルだけが分布している地方もある。

プルの栽培方法は独特で,個々の穂を小刀で切り取って適当な量を束ね,

穂のまま直接精米する。また,播種は苗床に穂播きする。

プルはインドのアウスと同様,インド型と日本型との中間型の形態を示すとともに,

日本稲xチレーの低い関連性に比べ,日本稲xプルでは関連性がきわめて高い。

しかし,アウスのばあいとはちがって,チレーxプルの関連性は低い。

プルもインドのアウスと同様に,感光性の低いものが多いが,

とくに基本栄養生長性が高いことが特徴的である。

そのためプルは,日本の自然環境では開花結実が困難である。

インドネシアでのチレーとプルに似たこのような分化は,

フィリピンから台湾にまで及んでいる。

ユナイテッド・プロビンス地方で栽培されている"香稲"(におい米)も興味深い。

インドのイネの栽培は,インド全域にわたっているが,とくに東部のペンガル,マドラス,

ビハール,アッサム,オリッサなどの地方でイネつくりが盛んである。

これらの地方では年中イネがつくられ,

栽培時期によってアウス(aus;秋イネ),アマン(aman;冬イネ),

ポロー(boro;春イネ)の三つのグループに分けられている。

このうちアマンは最も重要で,

6~7月に水田に散播あるいは移植され,11~12月に収穫される。

アウスは,5~6月に畑地に散播され,8~10月に収穫される。

ポローは,最も重要性が少なく,

12~1月に洪水あとの沼地などに散播され,3~4月に収穫される。


(3)中国の梗と杣

中国河南省の仰韶(あんじゃお)で出土した土器についていた籾殻は,

地層の古さから紀元前20~30世紀(今から4,000~5,000年前)のものと推定され,

すでにそのころ,中国ではイネつくりが行なわれていたことを示している。

中国は国土が広大で,気候的にも大きな幅があり,

したがってイネつくりの時期も地域によって非常に異なっている。

中国南部(華南)では,2~3月に播種して二期作が行なわれ,

福建,広東の沿岸地域では,古くから野生稲が自生していたという記録もある。

揚子江流域を含む中国中部(華中)になると,


しだいに一期作となり,4月初めに播種される。

黄河流域の中国北部(華北)では,播種は5月上句に行なわれる。

イネの品種もきわめて多いが,

古い時代から粳(こう)(あるいは杭)と杣(せん)との区別があった。

梗は日本型のイネで,粒は丸く,炊くと粘りがあって日本稲とよく似ている。

これに対して杣は,典型的なインド型である。

梗と杣との分布をみると,華南のイネは大部分が杣で,

華中になると杣と梗とが混在し,華北では大部分が梗となる。

つまり,中国を南から北へと上るにつれて,インド型から日本型への移行がみられる。


(4)朝鮮半島のイネ

慶尚南道の金海というところの貝塚からは,1900年ほど前の焼米が出土し,

また百済の旧都である扶余城の遺跡からも,1,300年はど前の焼米が発見されている。

これらの米の形状は,いずれも日本型を示していて,

朝鮮半島でもかなり古くから日本型のイネがつくられていたことがうかがわれる。

明治43年の日韓併合以後は,多くの日本稲が導入されたが,

それ以前にあった朝鮮在来稲もすべて日本型で,その多くは有芒,長稈だった。

それらの在来稲のうち,一部の倭稲(わとう)と呼ばれる無芒のグループは,

その昔日本から入ったものといわれる。

朝鮮半島は,日本に比べて年間降雨量がきわめて少ない。

そのため,朝鮮在来稲はすべて,耐干性が強い特徴をもつ。

とくに"乾稲"と呼ばれるグループは,水分が欠乏した状態でもよく発芽する。

乾稲は,古くから天水水田に直播された。

明治の終わりごろでも,朝鮮北部では,この種のイネによる水田直播が行なわれていた。

昔は朝鮮南部でもこのようなイネつくりが行なわれていて,

しだいに田植え様式が北上したといわれている。

日本では,すでに飛鳥時代(6~7世紀)には田植えが行なわれていたが,

これが朝鮮南部に伝わって北上したという説もある。

朝鮮半島では近年まで,米租(さるべー)と呼ばれる赤米イネが多くの水田に混入していて,

栽培稲の品質を下げていた。

これらの多くは,短粒で日本型に属するものだが,

洛東江流域には長粒のインド型の赤米イネも分布していたといわれる。


(5)台湾のイネ

台湾の在来種には,昔から高砂族によって山地で陸稲としてつくられていたイネと,

17世紀の初め中国からの漢民族の移住によって,

水田技術とともに持ち込まれたイネとがある。

高砂族によってつくられていた山地の陸稲は,長芒,長粒で草丈が高く,

ジャワのプルに似た,インド型と日本型の中間型のものが多く含まれていたという。

高砂族はマレー系の人種といわれ,古い時代に南方から,

これらのイネとともに台湾にやってきたのかもしれない。

いっばう,漢民族によって平地につくられた水稲は,無芒,小粒で草丈もあまり高くない,

中国系統のインド型だった。

明治28年に日本の領王となってからは,多くの日本稲が導入され,

純系分離によって,日本稲のなかから台湾の風土に適したイネが選抜された。

それらは蓬来米(ほうらいまい)と呼ばれ,やがて台湾全土にひろがった。

台湾では”鬼稲”と呼ばれる野生稲が発見されており。

草状は斜伏型,長芒,粒色は赤く,桴は黒灰色で脱粒しやすい。

栽培稲関連性は高いが,栽培稲の直接の先祖型とは考えられていない。

2023/03/11

中国の歴代王朝と北方騎馬民族


中華民国建国の1912年まで、
シナ人=漢人が支配者となった歴史は
漢王朝の405年間と明王朝の276年で、
わずか合計681年。



2023/03/09

周王朝

 周(しゅう)

~前221年
牧野(ぼくや)の戦いで殷を破った武王が打ち立てた周王朝は、800年の長きにわたって続いた。もっとも、 その大半を通じて周王朝の支配は名ばかりであり、諸侯は建前として周に帰服しながら実際は自主的に行動していた。歴史家はこの時代を西周(~前770年)と東周(前 770~前256年)の2つに区分する。また、東周はさらに春秋時代(前 770一前403年)と戦国時代(前 403~前221年)に分けられる。ちなみに、孔子や老子といった思想家がのちに中国社会を形づくる さまざまな原則を確立させたのは、この周代においてである。






殷(商)王朝

 殷(商)いん

殷(商)は確かな考古学的証拠によって実在が裏づけられる最古の中国王朝である。殷を治めていた湯王(とうおう)が夏王朝の専制君主、桀(けつ)を倒して打ち立てたとされる。湯王に続く歴代の股王は多くの戦争を戦い、馬に牽かせる戦車、青銅の武器、そして弓を活用した。この王朝の遺物として、王家の陵墓や銅器、古代の文字が刻まれた甲骨などが今に伝わる。暴政をほしい ままにした帝辛(ていしん)が周の武王(ぶおう)に敗れ たことで、殷王朝は滅びた。


夏王朝

 夏(考古学上の発見と立証はされていない)

伝統的な中国史によれば、中国建国の祖は“王朝以前”の中国を 統治したいわゆる「五帝」の最初の一人、黄帝(こうてい)とされる。中国最初の王朝は前2070年頃、禹によって 打ち立てられたとされる。禹は玉座を息子に譲ることで、帝位継承 の原則を創始する。この王朝は禹が属していた氏族の名にちなんで夏と命名された。14人の統治者を出した夏王朝の実在を疑い、神話上の存在にすぎないと考える歴史家もいる。



2023/03/08

中国歴代王朝

夏(か)

(考古学上の発見と立証はされていない)

伝統的な中国史によれば、中国建国の祖は“王朝以前”の中国を 統治したいわゆる「五帝」の最初の一人、黄帝(こうてい)とされる。中国最初の王朝は前2070年頃、禹によって 打ち立てられたとされる。禹は玉座を息子に譲ることで、帝位継承 の原則を創始する。この王朝は禹が属していた氏族の名にちなんで夏と命名された。14人の統治者を出した夏王朝の実在を疑い、神話上の存在にすぎないと考える歴史家もいる。




殷(商)いん
殷(商)は確かな考古学的証拠によって実在が裏づけられる最古の中国王朝である。殷を治めていた湯王(とうおう)が夏王朝の専制君主、桀(けつ)を倒して打ち立てたとされる。湯王に続く歴代の股王は多くの戦争を戦い、馬に牽かせる戦車、青銅の武器、そして弓を活用した。この王朝の遺物として、王家の陵墓や銅器、古代の文字が刻まれた甲骨などが今に伝わる。暴政をほしい ままにした帝辛(ていしん)が周の武王(ぶおう)に敗れ たことで、殷王朝は滅びた。

周(しゅう)
~前221年
牧野(ぼくや)の戦いで殷を破った武王が打ち立てた周王朝は、800年の長きにわたって続いた。もっとも、 その大半を通じて周王朝の支配は名ばかりであり、諸侯は建前として周に帰服しながら実際は自主的に行動していた。歴史家はこの時代を西周(~前770年)と東周(前 770~前256年)の2つに区分する。また、東周はさらに春秋時代(前 770一前403年)と戦国時代(前 403~前221年)に分けられる。ちなみに、孔子や老子といった思想家がのちに中国社会を形づくる さまざまな原則を確立させたのは、この周代においてである。

秦(しん )
前2221年~全206年
周の滅亡後に勃発した内戦を勝ち上がったのが、秦王の嬴政(えいせい)である。嬴政は自身の絶対的支配のもとに中国を統一し、始皇帝、すな わち「最初の皇帝」を名乗った。始皇帝は人々に労役を課し、万里の長城を築いて辺境の守りを固め、素焼きの兵士像数千体に守られた広大な陵墓を造営した。前 210年に始皇帝が没すると、相次ぐ反乱により、後継者たちはことごとく権力中枢から排除された。

漢(かん)
前202~後220年
ローマ帝国と時代を同じくする漢王朝は、4世紀にわたって中国を支配した。卑賎の生まれから反乱に身を投じ、やがて高祖帝として即位した劉邦(りゅうほう)を始祖とする。漢代は国家が統合され文化が興隆し た黄金時代として、後世の中国人から理想化された。歴代皇帝は首都長安から、儒教思想に基づいて中央集権国家を統治している。漢は帝国の版図を押し広げ、その影響カを中央アジアにまで及ぼすと共に、シルクロード(絹の道)によって西欧との交易を振興した。前漢(中国では「西漢」)と呼ぱれる漢王朝の第1期は後8年、王莽が帝位を纂奪して新という短命王朝を立てたことで終わりを告げる。しかし25年には漢王朝が再興し、後漢(東漢)として洛陽に都を定めた。184年に起きた農民反乱、黄巾の乱により弱体化した後漢は、各地の群雄が覇を競うな かで瓦解した。

分裂の時代
220~581年
220年、漢朝最後の工程が退位させられると、魏、呉、蜀の三国 が覇権を争う時代に入る。280年には西晋が中国の再統一を果たすも長続きしなかった。4世紀になると華北は侵入者に占領され、以後、短命な支配が繰り返された。 一方、華南では南京を首都とする王朝が何度か交代したものの、北部に比べれば安定していた。

隋(ずい)
581~618年
数世紀に及ぶ分裂の時代を経て中国を再統一したのが隋王朝であ る。556年、北周が華北の大国の地位を西魏から奪い取ったのだが、581年、その北周の将軍、楊堅(ようけん)が皇帝に取って代わり、華南を
平定した。楊堅(ようけん)ー文帝とその後継者である楊広(ようこう)ー楊帯(ようだい) は次々と
大規模な建設事業に着手し、さらにはベトナムと朝鮮への遠征に乗り出した。 こうした施政で民衆に多大な負担を強いたことが、結局は反乱を招き、王朝の滅亡につながった。

唐(とう)
618 -907年
唐王朝は自ら皇帝となって権カを掌握した李淵(りえん)ー高祖帝によっ て打ち立てられた。高祖帝の子で 妥協を知らない太宗は、隋が整え た基盤の上に強力な中央集権国家を築き上げ、中央アジアへの外征くを繰り返した。690年からは則天武后(そくてんぶこう)ー武則天が国号を周(しゅう)に改めて統治を行うが、705年には唐朝が復活する。玄宗帝(げんそう)の治下(712 -756年)、中国は経済文化の両面で最盛期を迎える。しかし755年、将軍の安禄山(あんろくざん)が起こした反乱(安史の乱)により帝国は荒廃した。 このときは滅亡こそ免れたものの、9世紀半ば以降唐朝は衰え、回復することはなかった。

五代十国時代
907-960年
唐の滅亡後、中国は複数の実力者が独立を宣言する内乱の時代に 突入する。国土の南半分には10の王国が並び立ち、北半分では後周を最後とする5つの王朝(五代)が交代したが、いずれも中国の実質的主導権を握ることはなかった。一方、北辺では遊牧民の契丹人(きったんじん)が遼王朝(916一1125年)を打 ち立て、現在の中国東北部からモ ンゴルと北朝鮮にまたがる地域を 支配した。

宋(そう)
960- 1279年
後周から権カを奪った趙匡胤(ちょうきょういん)は宋王朝を打ち立てた。のちに太祖と呼ばれるこの皇帝は中国を統一 したが、唐朝歴代の皇帝に比べると、支配した版図は小さかった。 宋帝国は士大夫(したいふ)が担う官僚機構によって統治が行き届き、経済的な繁栄を見る。火薬、紙幣、方位磁石といった大きな技術革新は、いずれも宋代に起きている。もっとも、この帝国は草原の騎馬民族の攻撃に対しては終始一貫して脆弱 であった。1115年、女真人(じょしんじん)は金(きん)王 朝を開き、契丹人の遼を滅ぼして、 1127年には宋の都、開封(かいほう)を攻め落とした。宋は南に退くことで滅亡を免れ(以後、南宋と呼ばれる)、膨張する諸都市と海上貿易を支配 した。しかし、北方からモンゴル人という新たな侵略者が現れ、モンゴルは1234年に金を滅ぼし、 1279年には南宋を征服した。

元(げん)
1271~1368年
フビライ=ハン率いるモンゴル人は、中国全土を征服した最初の異民族だった。フビライは首都大都(北京)から統治を行い、漢人を官僚や顧間に取り立てる一方、 実権はモンゴル人で握って離さな かった。武力による拡張政策をと ったが、日本には2度侵攻してい ずれも失敗に終わった。東南アジ アにも派兵したが一部で敗退して いる。この時代、元朝のみならず モンゴル帝国全域で国際交易が急速に発展し、シルクロードによっ て中国と西アジア、さらにョーロ ッパが結ばれた。1294年にフビライが死去すると、王朝は衰退する。 疫病の流行や洪水、重税などが農民の反乱を誘発し、異民族支配に対する民衆の怒りをかき立てた。やがてモンゴル人は中国の大部分 の支配を失い、1368年には北京か らの撤退を余儀なくされた。

明(みん)
1368- 1644年
農民が反乱を起こした紅巾の乱の指導者、朱元璋(しゅげんしょう)が打ち立てた明王朝は、科挙による官僚登用をはじめとする中国の従来の伝統を復活させた。永楽帝(えいらくてい)が1北京に新しい都を築き、インド洋に向けて強大な艦隊を送り出すな ど積極的な施政を行った。しかし永楽帝の治世が終わると明朝は守勢に転じ、万里の長城を延長して自給自足の国家運営を鮮明にし た。16世紀に海を渡ってきた欧州の商人たちが不信感と敵意を向けられたのは、そのためである。明朝の支配下で中国は活気あふ れる都市文化を謳歌し、商業と手工業の隆昌を見るも、政治の質はしばしば低く、宦官(かんがん)たちと儒学者である官僚たち (士大夫)の対立 に悩まされた。相次ぐ自然災害と無法状態の蔓延によって疲弊した 明朝は、1644年に反乱で倒され、北京は北辺から侵攻してきた満洲人に占領された。

清(しん)
1644~ 1912年
中国最後の王朝はマンチュリアに居住していた満洲人によって打 ち立てられた。1636年、万里の長城の北で清朝成立を宣言した満洲人は、1644年に長城を越えて北京を占領し、中国全土に覇を唱えた。明の忠臣たちを押さえ込み、全国に清の制度を課す一方、満洲人は漢人とは文化的に明確に異なる民族集団でありながら、儒教の伝統を数多く取り入れた。帝国は繁栄し、軍事遠征によってその版図は中央アジアの深部まで拡大した。 しかし19世紀以降、経済が落ち込むと反乱が相次ぎ、特に太平天国乱(ていへいてんごく)の乱では危うく帝国が滅びか けた。西欧列強と日本は王朝の弱体化につけ込み、相次ぐ戦争で中国を打ち負かしては、過酷な講和条件を押しつけた。清朝による近代化の失敗は、帝国を支える柱を徐々に蝕んでいく。最後の皇帝、薄儀(ふぎ)は中国が共和制国家(中華民国)となった1912年に退位させ られた。