上杉米沢藩の地領は関ケ原の合戦の徳川家康の勝利により、
慶長6年(1601)米澤30万石に減封されました。
領地の範囲は旧領のうち
出羽国置賜郡(現在の山形県南部)、
陸奥国伊達、信夫両郡(福島県中通り地方北部)
の30万石となりました。
元禄15年(1702年)に領地を描いた国絵図に小野川村が確認できます。
小野川の歴史的記録は以下の様なものです。
小野川村(おのがわむら)現在:米沢市小野川町
簗沢村の東、大樽川沿岸の河岸段丘上に立地。
戦国時代には上長井のうち。
天文22年(1553)の晴宗公采地下賜録によれば、小野川のうちで、
大枝左衛門督が市川平三分を与えられ、「くほの在け」「田代さいけ」を預けられ、
宮崎伊予が「かけの下在け」をそれぞれ与えられた。
天正15年(1587)の上長井段銭帳によれば小野川から大枝氏が340文、
立石源八が100文、小簗川新兵衛・宮崎三郎左衛門が
合せて120文をそれぞれ上納 している。
同17年3月27日から4月1日にかけ、
伊達政宗は小簗川泥蟠・富塚近江らと小野川温泉で諸戦の策を練った(伊達天正日記)。
近世初期の邑鑑に村名がみえ、高272石余、免6ツ2分、家数47(うち役家20、
肝煎・小走3)・人数314、役木として漆・桑をあげる。
蒲生氏高目録帳によると村柄は上。
正保郷帳では田339石余・畑347石余。
元文4年(1739)の「山林台帳」によれば大佐田(おさだ)林(雑木留林)があった。
上杉治憲の殖産政策により、安永元年(1772)
当地小野川温泉の湯を煎じて製塩する方法が試みられ、
同2年当村の源三郎・善五郎が塩場一反につき運上銭10貫文とすることで
塩場普請を願出て免許されてい る。
同年家臣五十騎組により当村川原に新田が開拓された(三重年表)。
上杉領村目録によれば高727石余、本免33ツ2歩余、反別58町7反余(寛政元年改)、
家数83・ 人数459、馬43・牛1、漆木6千32本、
うち役木 2千709・百万本口2千392、御買米29石余
・御買紅花979匁余・御買綿372匁、蚕利275両2朱。
用水は鬼面川(おものがわ)の笹原堤(ささはらつつみ)用水堰・堤の腹堰から取水した。
真言宗豊山派の金乗院(こんじょういん)がある。
小野川温泉は大永2年(1522)肥前国湯江の浜から漁師が来て開いたとか、
小野小町が開いたのでこの名があるとか伝えている。
「東講商人鑑」によれば、江戸時代に は尼湯・滝湯・直湯の3湯があり、
富士屋ほか21軒の旅館があった。
泉質はラジウム含有量の多い塩類泉で、
リウマチ性疾患・皮膚病・糠尿病などに効能があるとさ れる。
その後の小野川は、明治32年には滝の沢の水力発電所で送電が開始され、
同34年には64戸を焼失する大火が起きた。
大正12年(1923)には小野川スキー場が開設され、
昭和19年(1944)には温泉に東京から学童疎開が行われた。
同33年には小野川スキー場が拡張整備されリフトを設置し、
同56年からはホタル祭りが開催され、
平成25年 (2013)には小野川温泉中心街が米沢市景観重点地区に指定されている。
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