(1)伝来の時期
日本では,いつごろからイネつくりが行なわれるようになったのだろうか。
文字による記録がない古い時代のことなので,
それを調べるには古代人の遺跡や遺物の発掘によるほかはない。
そのような考古学的な研究から,
日本のイネつくり文化(農耕文化)は,
紀元前2~3世紀に青銅や鉄の文化とともに北九州に伝えられ,
その後西日本一帯に急速にひろがり,
東日本にまで及んだと推定されている。
歴史学では,この新しい文化の時代を弥生時代と呼んでいる。
弥生時代の前,およそ1万年つづいたといわれる繩文時代の人たちは,
野生の子実を採集したり,狩猟や漁撈によったりして生活を営んでいた。
農耕文化の到来は,自然にあるものを採って食べる生活から,
一定の場所に定住して食糧をみずから生み出す生活へと,
原始社会に大変革をもたらしたにちがいない。
弥生時代にイネつくりが始まったとする考古学的な証拠には,
次の諸点があげられる。
①弥生時代の多くの遺跡から,
炭化した籾や米が多数出土する。
また弥生式土器には籾跡のついたものが,たくさん発見される。
②繩文時代にはなかった鉄の道具でつくった木製の鍬,
鋤,田下駄(面の広い泥田ではく下駄),田舟(収穫に使う小舟)や,
米を蒸したと思われる底に小穴のあいた土器などが,弥生時代に使われている。
③とくに石庖丁と呼ばれる磨製の石器は,
弥生時代の特徴をあらわす農具として有名で,
つの孔にひもを通して手先に密着させ,稲の穂をつみ取るのに用いられた。
④静岡県の登呂遺跡のような水田遺跡が発掘されている。
登呂遺跡は,弥生時代の紀元前100年ころのもので,
安倍川ぞいの湿地に400~600坪の水田が規則正しくつくられ,
今もあぜ道の両側に打ち込まれた木の杭が残されている。
稲を収めた高床式の倉庫跡も見られる。
⑤銅鐸は弥生時代の後期,紀元2~3世紀につくられたわが国独得のつりがねを横に押しつぶしたような形をした青銅の宝物で,
30~135cmの大小さまざまなものが出上しているが,
銅鐸の表面に刻まれた図柄のなかに,日と杵を使って脱穀をしている人の姿や,
高床式の倉庫などがある。
以上のような遺跡や遺物がもたらした知識から,
弥生時代の人たちのイネつくりのようすは次のようなものだっただろうと想像されている。
イネつくりは直播で,湿地に種子が播かれた。
収穫期になると,田下駄や田舟を使って石庖丁で穂だけをつみ取り,
適当な量を束ねて日に乾かし,高床式の倉床にたくわえた。
穂は必要に応じて臼に入れ,竪きねでついて脱穀した。
米は今のように煮るのではなく,底に小穴のあいた土器に入れ,
水を張った別の土器の上に乗せ,下から火を炊いて蒸した。
田植えが行なわれるようになったのは,
飛鳥時代(紀元6~7世紀)ころからといわれる。
今のところ,弥生時代以前に日本でイネつくりが行なわれていたとする考古学的な証拠は得られていない。
しかしそれ以前にもイネつくりがあったという新たな証拠が,
今後発見されないとは限らない。
(2)中国渡来説と南方渡来説
イネは日本の自然環境では自生できない。
とすれば,日本のイネとイネつくりは,
どこかの国から人によってもたらされたに違いない。
それには次のようないろいろな説がある。
①中国北部(華中)から朝鮮半島をへて日本へやってきたとする説
②中国中部(華北)の揚子江流域から海路日本に渡ったとする説
③南方から黒潮に乗って直接日本に流れついたとする説
④南方から,島伝いに日本に伝えられたとする説
こでは①,②の説を中国渡来説,③,④の説を南方渡来説と呼ぶことにしよう。
弥生時代の遺跡42か所から発見された扨と,
86か所から出上した土器についていた籾跡は,
すべて短粒型であり,当時も現在と同じ日本型のイネがつくられていたことを示す。
アジアの国々のうちで日本型のイネが分布しているところは,
中国の華中,華北と朝鮮半島とであり,
中国では今から4,000~5,000年も前からイネつくりが行なわれていたことや,
日本と朝鮮,中国との間に古くから往来があったことなどを考え合わせると,
中国渡来説が最も有力なように思われる。
このうち,華北から朝鮮半島をへて日本に渡来したとする①の説は,
弥生時代に特徴的な石庖丁が華北や朝鮮にかけて分布していて,
他の地方ではみられないことなどからも支持されている。
しかし,華北の農業の主体はコムギやコウリャンで,イネは少なく,
華北のイネつくりが朝鮮半島を南下したという証拠もない。
それはたして日本の弥生時代以前に,
朝鮮南部にイネつくりが行なわれていたかどかも不明であり,
この説を疑問視する意見もある。
これに比べると,華中・揚子江流域から海路日本に渡来したとする②の説は,
日本稲によく似たイネ(梗)がこれらの地域に多く分布していることから,
より可能性が高い。華北の緯度は日本の東北地方にほば等しく,
イネの種類も早生種に限られているが,
華中では播種期が3月初旬から5月上旬にわたり,
昔も早生種から晩生種にいたる多様な熱期のイネが存在していたものと思われる。
日本稲の幅広い熟期を考えると,
華中からいろいろの熟期のイネが日本へ入ったとみるほうが自然だろう。
日本の繩文時代の終わりころの中国は,春秋戦国の時代で,
呉や越の国が滅びていった。
これらの敗戦の流民が新しい永住の地を求めて,
イネやイネつくりの技術をもって,
大量に海を渡って日本にやってきたことも想像される。
南方渡来説は,インド,ジャワ,台湾などの在来種に,
日本型のイネが存在しない点で弱点をもつ。
しかし,
インドのアウスやジャワのプルは形態的に日本型とインド型との中間に位置し,
日本稲との親和性もかなり高いし感光性も低い。
とくにアウスは,日本の自然環境のもとでも開花結実する。
インドやジャワでは3,000年以上の古いイネつくりの歴史があり,
ジャワのプルに似たタイプのイネがフィリピンや台湾の山地にも
分布していたことを考えると,
インドやジャワから直接あるいは島伝いにこれらのイネが日本へ伝わった可能性も否定できない。
古代インドの『ヴェーダ経』のなかでは,
イネをウリヒーと呼び,これが日本のウルチと似ていることや,
ジャワでのプルのイネつくりや台湾の高砂族によるイネっくりの方法が,
穂だけをつんで束ねて日乾するなどの点で,
日本の弥生時代のイネつくりに似ていることなども,
南方渡来説を支持するものとして興味深い。
言語学では,古代の日本人の言語がインドネシア系のポリネシア語と,
朝鮮・モンゴル系の北方アルタイ語とに深いかかわりをもっことを指摘している。
また日本古来の神話のなかにも,北方系の神話と南方系の神話とが混在しているという。
これらのことは,弥生時代以前に南方系の民族が
日本に入り込んでいたことを示唆するもので,
当時すでに日本にイネが持ち込まれたことも考えられなくはない。
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