夏(か)
(考古学上の発見と立証はされていない)
伝統的な中国史によれば、中国建国の祖は“王朝以前”の中国を 統治したいわゆる「五帝」の最初の一人、黄帝(こうてい)とされる。中国最初の王朝は前2070年頃、禹によって 打ち立てられたとされる。禹は玉座を息子に譲ることで、帝位継承 の原則を創始する。この王朝は禹が属していた氏族の名にちなんで夏と命名された。14人の統治者を出した夏王朝の実在を疑い、神話上の存在にすぎないと考える歴史家もいる。
殷(商)いん
殷(商)は確かな考古学的証拠によって実在が裏づけられる最古の中国王朝である。殷を治めていた湯王(とうおう)が夏王朝の専制君主、桀(けつ)を倒して打ち立てたとされる。湯王に続く歴代の股王は多くの戦争を戦い、馬に牽かせる戦車、青銅の武器、そして弓を活用した。この王朝の遺物として、王家の陵墓や銅器、古代の文字が刻まれた甲骨などが今に伝わる。暴政をほしい ままにした帝辛(ていしん)が周の武王(ぶおう)に敗れ たことで、殷王朝は滅びた。
周(しゅう)
~前221年
牧野(ぼくや)の戦いで殷を破った武王が打ち立てた周王朝は、800年の長きにわたって続いた。もっとも、 その大半を通じて周王朝の支配は名ばかりであり、諸侯は建前として周に帰服しながら実際は自主的に行動していた。歴史家はこの時代を西周(~前770年)と東周(前 770~前256年)の2つに区分する。また、東周はさらに春秋時代(前 770一前403年)と戦国時代(前 403~前221年)に分けられる。ちなみに、孔子や老子といった思想家がのちに中国社会を形づくる さまざまな原則を確立させたのは、この周代においてである。
秦(しん )
前2221年~全206年
周の滅亡後に勃発した内戦を勝ち上がったのが、秦王の嬴政(えいせい)である。嬴政は自身の絶対的支配のもとに中国を統一し、始皇帝、すな わち「最初の皇帝」を名乗った。始皇帝は人々に労役を課し、万里の長城を築いて辺境の守りを固め、素焼きの兵士像数千体に守られた広大な陵墓を造営した。前 210年に始皇帝が没すると、相次ぐ反乱により、後継者たちはことごとく権力中枢から排除された。
漢(かん)
前202~後220年
ローマ帝国と時代を同じくする漢王朝は、4世紀にわたって中国を支配した。卑賎の生まれから反乱に身を投じ、やがて高祖帝として即位した劉邦(りゅうほう)を始祖とする。漢代は国家が統合され文化が興隆し た黄金時代として、後世の中国人から理想化された。歴代皇帝は首都長安から、儒教思想に基づいて中央集権国家を統治している。漢は帝国の版図を押し広げ、その影響カを中央アジアにまで及ぼすと共に、シルクロード(絹の道)によって西欧との交易を振興した。前漢(中国では「西漢」)と呼ぱれる漢王朝の第1期は後8年、王莽が帝位を纂奪して新という短命王朝を立てたことで終わりを告げる。しかし25年には漢王朝が再興し、後漢(東漢)として洛陽に都を定めた。184年に起きた農民反乱、黄巾の乱により弱体化した後漢は、各地の群雄が覇を競うな かで瓦解した。
分裂の時代
220~581年
220年、漢朝最後の工程が退位させられると、魏、呉、蜀の三国 が覇権を争う時代に入る。280年には西晋が中国の再統一を果たすも長続きしなかった。4世紀になると華北は侵入者に占領され、以後、短命な支配が繰り返された。 一方、華南では南京を首都とする王朝が何度か交代したものの、北部に比べれば安定していた。
隋(ずい)
581~618年
数世紀に及ぶ分裂の時代を経て中国を再統一したのが隋王朝であ る。556年、北周が華北の大国の地位を西魏から奪い取ったのだが、581年、その北周の将軍、楊堅(ようけん)が皇帝に取って代わり、華南を
平定した。楊堅(ようけん)ー文帝とその後継者である楊広(ようこう)ー楊帯(ようだい) は次々と
大規模な建設事業に着手し、さらにはベトナムと朝鮮への遠征に乗り出した。 こうした施政で民衆に多大な負担を強いたことが、結局は反乱を招き、王朝の滅亡につながった。
唐(とう)
618 -907年
唐王朝は自ら皇帝となって権カを掌握した李淵(りえん)ー高祖帝によっ て打ち立てられた。高祖帝の子で 妥協を知らない太宗は、隋が整え た基盤の上に強力な中央集権国家を築き上げ、中央アジアへの外征くを繰り返した。690年からは則天武后(そくてんぶこう)ー武則天が国号を周(しゅう)に改めて統治を行うが、705年には唐朝が復活する。玄宗帝(げんそう)の治下(712 -756年)、中国は経済文化の両面で最盛期を迎える。しかし755年、将軍の安禄山(あんろくざん)が起こした反乱(安史の乱)により帝国は荒廃した。 このときは滅亡こそ免れたものの、9世紀半ば以降唐朝は衰え、回復することはなかった。
五代十国時代
907-960年
唐の滅亡後、中国は複数の実力者が独立を宣言する内乱の時代に 突入する。国土の南半分には10の王国が並び立ち、北半分では後周を最後とする5つの王朝(五代)が交代したが、いずれも中国の実質的主導権を握ることはなかった。一方、北辺では遊牧民の契丹人(きったんじん)が遼王朝(916一1125年)を打 ち立て、現在の中国東北部からモ ンゴルと北朝鮮にまたがる地域を 支配した。
宋(そう)
960- 1279年
後周から権カを奪った趙匡胤(ちょうきょういん)は宋王朝を打ち立てた。のちに太祖と呼ばれるこの皇帝は中国を統一 したが、唐朝歴代の皇帝に比べると、支配した版図は小さかった。 宋帝国は士大夫(したいふ)が担う官僚機構によって統治が行き届き、経済的な繁栄を見る。火薬、紙幣、方位磁石といった大きな技術革新は、いずれも宋代に起きている。もっとも、この帝国は草原の騎馬民族の攻撃に対しては終始一貫して脆弱 であった。1115年、女真人(じょしんじん)は金(きん)王 朝を開き、契丹人の遼を滅ぼして、 1127年には宋の都、開封(かいほう)を攻め落とした。宋は南に退くことで滅亡を免れ(以後、南宋と呼ばれる)、膨張する諸都市と海上貿易を支配 した。しかし、北方からモンゴル人という新たな侵略者が現れ、モンゴルは1234年に金を滅ぼし、 1279年には南宋を征服した。
元(げん)
1271~1368年
フビライ=ハン率いるモンゴル人は、中国全土を征服した最初の異民族だった。フビライは首都大都(北京)から統治を行い、漢人を官僚や顧間に取り立てる一方、 実権はモンゴル人で握って離さな かった。武力による拡張政策をと ったが、日本には2度侵攻してい ずれも失敗に終わった。東南アジ アにも派兵したが一部で敗退して いる。この時代、元朝のみならず モンゴル帝国全域で国際交易が急速に発展し、シルクロードによっ て中国と西アジア、さらにョーロ ッパが結ばれた。1294年にフビライが死去すると、王朝は衰退する。 疫病の流行や洪水、重税などが農民の反乱を誘発し、異民族支配に対する民衆の怒りをかき立てた。やがてモンゴル人は中国の大部分 の支配を失い、1368年には北京か らの撤退を余儀なくされた。
明(みん)
1368- 1644年
農民が反乱を起こした紅巾の乱の指導者、朱元璋(しゅげんしょう)が打ち立てた明王朝は、科挙による官僚登用をはじめとする中国の従来の伝統を復活させた。永楽帝(えいらくてい)が1北京に新しい都を築き、インド洋に向けて強大な艦隊を送り出すな ど積極的な施政を行った。しかし永楽帝の治世が終わると明朝は守勢に転じ、万里の長城を延長して自給自足の国家運営を鮮明にし た。16世紀に海を渡ってきた欧州の商人たちが不信感と敵意を向けられたのは、そのためである。明朝の支配下で中国は活気あふ れる都市文化を謳歌し、商業と手工業の隆昌を見るも、政治の質はしばしば低く、宦官(かんがん)たちと儒学者である官僚たち (士大夫)の対立 に悩まされた。相次ぐ自然災害と無法状態の蔓延によって疲弊した 明朝は、1644年に反乱で倒され、北京は北辺から侵攻してきた満洲人に占領された。
清(しん)
1644~ 1912年
中国最後の王朝はマンチュリアに居住していた満洲人によって打 ち立てられた。1636年、万里の長城の北で清朝成立を宣言した満洲人は、1644年に長城を越えて北京を占領し、中国全土に覇を唱えた。明の忠臣たちを押さえ込み、全国に清の制度を課す一方、満洲人は漢人とは文化的に明確に異なる民族集団でありながら、儒教の伝統を数多く取り入れた。帝国は繁栄し、軍事遠征によってその版図は中央アジアの深部まで拡大した。 しかし19世紀以降、経済が落ち込むと反乱が相次ぎ、特に太平天国乱(ていへいてんごく)の乱では危うく帝国が滅びか けた。西欧列強と日本は王朝の弱体化につけ込み、相次ぐ戦争で中国を打ち負かしては、過酷な講和条件を押しつけた。清朝による近代化の失敗は、帝国を支える柱を徐々に蝕んでいく。最後の皇帝、薄儀(ふぎ)は中国が共和制国家(中華民国)となった1912年に退位させ られた。
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