2023/03/28

アシアの国々のイネと稲作

 (1)インドのアマンとアウス

今からおよそ3,000年前に書かれたという古代インドの「ヴェーダ経』という古書には,

イネのことがいろいろ書かれており,

インドでは3,000年以上のイネつくりの歴史をもっことがわかっている。

インドの緯度は北緯8度~37度におよび、


カシミール高原などの高地にも稲が作られている。

また,インドでは雨期の早晩,雨量の多少,

洪水などの気象条件にも大きな幅があり,

さらにアルカリ性土壌や潮水の入るところなどもあって,

イネの栽培方法や栽培時期も多様である。

そのため品種の数もきわめて多く,

生育期間も最短80日のものから最長8か月のものまである。

変わったイネでは,数フィートの深水にたえ"る深水稲"や,

20フィート(6m)の水にも育つ

"浮きイネ"などがあり,

また,ペンガル地方では優れた耐潮性品種も育成されている。


(2)ジャワのプルとチレー

インドネシアのイネつくりの歴史も古い。

ジャワでは紀元前1084年にすでにイネつくりが行なわれていたという。

ジャワとマジュラ島とが米の主産地で,

ふつうの水稲のほかに,深水稲や浮きイネなども栽培されている。

インドネシアの水稲にはプル(bulu)とチレ(tjereh)の二つのグループがあり,

プルは有芒種で,チレーは無芒種である。

チレーはインドのアマンと同様に典型的なインド型で,

インドネシアの全群島に分布している。

これに対して,プルはインド型と日本型との中間的な形態を示し,

チレーに比べて粒が短く,葉が広く,長穂で,倒伏難,脱粒難,耐病性強などの利点をもつ。

そのため低収ではあるが,シャワ,マジュラを初めとして,多くの島の一部で栽培されている。

パリ,ロンポックのように,プルだけが分布している地方もある。

プルの栽培方法は独特で,個々の穂を小刀で切り取って適当な量を束ね,

穂のまま直接精米する。また,播種は苗床に穂播きする。

プルはインドのアウスと同様,インド型と日本型との中間型の形態を示すとともに,

日本稲xチレーの低い関連性に比べ,日本稲xプルでは関連性がきわめて高い。

しかし,アウスのばあいとはちがって,チレーxプルの関連性は低い。

プルもインドのアウスと同様に,感光性の低いものが多いが,

とくに基本栄養生長性が高いことが特徴的である。

そのためプルは,日本の自然環境では開花結実が困難である。

インドネシアでのチレーとプルに似たこのような分化は,

フィリピンから台湾にまで及んでいる。

ユナイテッド・プロビンス地方で栽培されている"香稲"(におい米)も興味深い。

インドのイネの栽培は,インド全域にわたっているが,とくに東部のペンガル,マドラス,

ビハール,アッサム,オリッサなどの地方でイネつくりが盛んである。

これらの地方では年中イネがつくられ,

栽培時期によってアウス(aus;秋イネ),アマン(aman;冬イネ),

ポロー(boro;春イネ)の三つのグループに分けられている。

このうちアマンは最も重要で,

6~7月に水田に散播あるいは移植され,11~12月に収穫される。

アウスは,5~6月に畑地に散播され,8~10月に収穫される。

ポローは,最も重要性が少なく,

12~1月に洪水あとの沼地などに散播され,3~4月に収穫される。


(3)中国の梗と杣

中国河南省の仰韶(あんじゃお)で出土した土器についていた籾殻は,

地層の古さから紀元前20~30世紀(今から4,000~5,000年前)のものと推定され,

すでにそのころ,中国ではイネつくりが行なわれていたことを示している。

中国は国土が広大で,気候的にも大きな幅があり,

したがってイネつくりの時期も地域によって非常に異なっている。

中国南部(華南)では,2~3月に播種して二期作が行なわれ,

福建,広東の沿岸地域では,古くから野生稲が自生していたという記録もある。

揚子江流域を含む中国中部(華中)になると,


しだいに一期作となり,4月初めに播種される。

黄河流域の中国北部(華北)では,播種は5月上句に行なわれる。

イネの品種もきわめて多いが,

古い時代から粳(こう)(あるいは杭)と杣(せん)との区別があった。

梗は日本型のイネで,粒は丸く,炊くと粘りがあって日本稲とよく似ている。

これに対して杣は,典型的なインド型である。

梗と杣との分布をみると,華南のイネは大部分が杣で,

華中になると杣と梗とが混在し,華北では大部分が梗となる。

つまり,中国を南から北へと上るにつれて,インド型から日本型への移行がみられる。


(4)朝鮮半島のイネ

慶尚南道の金海というところの貝塚からは,1900年ほど前の焼米が出土し,

また百済の旧都である扶余城の遺跡からも,1,300年はど前の焼米が発見されている。

これらの米の形状は,いずれも日本型を示していて,

朝鮮半島でもかなり古くから日本型のイネがつくられていたことがうかがわれる。

明治43年の日韓併合以後は,多くの日本稲が導入されたが,

それ以前にあった朝鮮在来稲もすべて日本型で,その多くは有芒,長稈だった。

それらの在来稲のうち,一部の倭稲(わとう)と呼ばれる無芒のグループは,

その昔日本から入ったものといわれる。

朝鮮半島は,日本に比べて年間降雨量がきわめて少ない。

そのため,朝鮮在来稲はすべて,耐干性が強い特徴をもつ。

とくに"乾稲"と呼ばれるグループは,水分が欠乏した状態でもよく発芽する。

乾稲は,古くから天水水田に直播された。

明治の終わりごろでも,朝鮮北部では,この種のイネによる水田直播が行なわれていた。

昔は朝鮮南部でもこのようなイネつくりが行なわれていて,

しだいに田植え様式が北上したといわれている。

日本では,すでに飛鳥時代(6~7世紀)には田植えが行なわれていたが,

これが朝鮮南部に伝わって北上したという説もある。

朝鮮半島では近年まで,米租(さるべー)と呼ばれる赤米イネが多くの水田に混入していて,

栽培稲の品質を下げていた。

これらの多くは,短粒で日本型に属するものだが,

洛東江流域には長粒のインド型の赤米イネも分布していたといわれる。


(5)台湾のイネ

台湾の在来種には,昔から高砂族によって山地で陸稲としてつくられていたイネと,

17世紀の初め中国からの漢民族の移住によって,

水田技術とともに持ち込まれたイネとがある。

高砂族によってつくられていた山地の陸稲は,長芒,長粒で草丈が高く,

ジャワのプルに似た,インド型と日本型の中間型のものが多く含まれていたという。

高砂族はマレー系の人種といわれ,古い時代に南方から,

これらのイネとともに台湾にやってきたのかもしれない。

いっばう,漢民族によって平地につくられた水稲は,無芒,小粒で草丈もあまり高くない,

中国系統のインド型だった。

明治28年に日本の領王となってからは,多くの日本稲が導入され,

純系分離によって,日本稲のなかから台湾の風土に適したイネが選抜された。

それらは蓬来米(ほうらいまい)と呼ばれ,やがて台湾全土にひろがった。

台湾では”鬼稲”と呼ばれる野生稲が発見されており。

草状は斜伏型,長芒,粒色は赤く,桴は黒灰色で脱粒しやすい。

栽培稲関連性は高いが,栽培稲の直接の先祖型とは考えられていない。

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