満洲開拓は当時あらゆる階層の人々が、
不可能だといっていた日本人の満洲農業移民が、
満洲の荒野を開いて、人類の生活に寸時も欠く事の出来ない、
衣食住の原料生産を立派に成し遂げたという事実を記録した実に大切な書物である。
その頃、日本人の満洲農業移民は無意味だ、絶対不可能だという愚論が、
満洲現地においてはもちろん、日本内地においても、 時の大蔵大臣高橋是清翁をはじめとして、陸軍大臣、ま た殖民に一番深い関係のある拓務大までもが、皆駄目だといっていたのである。 かかる際に日本農民が現地に乗り込んで行って、あらゆる困難を克服して、 立派に彼の地に落ち着くようになったのは、何といっても画期的な大事業であった。 不幸にして世界大戦において、日本が破れ、かっ満洲国も減亡したために、 成功しつつあったこの大事業も中途で挫折の止むなきに至り、 内地より移住した多くの日本農民は、悲慘な目にあって、 辛うじて日本に帰って来たのであけれども、あれ程御歴々が頑固に主張した、 日本人の満洲農業移民不可能論を見事打ち破って、 事実をもってその可能なことを示した功は、絶対に忘れてはならない。 現在は日本農民による満洲開発の不可能を主張する人など一人もあるまい。 しかしその当時のことを思うと、内外地における御歴々は皆反対だった。 そもそも満洲農業移民が駄目だという主張は、 いわゆる農業経済を教える欧米各国に横行していた企業的農業論である。 気候も悪いし、土壤の性質も日本内地とは違うし、 病害虫なども多い彼の地に日本農民が行って、 しかも土着の満人農民は生活程度が極めて低く、よく悪い気候を克服し、 男女ともによく働く、彼等の中に日本農民が入って、とても対抗できるものではない。 況んや匪賊の横行する所で、日本人が落ち着いて働けるものではないというのである。 しかしながらこれは日本農家の実情をよく知らぬ人々の農業経済論であって、 日本農民は一定の土地、しかも二、三町歩位の小さな土地で、 草木の適当に繁る所でさえあれば、 これを耕作して立派に生活して行くだけのカのある農民なのである。 それなのに欧米人の農業経済論にふり回わされて、 日本農民は満洲には移住できないと主張したのである。 その不可能論を打ち破ったあらましを、ここに書いておきたいと思う。 そして、一国の国民の前途を明かるくもし、また暗くもする、 我が国の責任ある立場にある方々の御参考に供したいのである。 多くの不可能論者の中に陸軍大臣荒木貞夫大将もおったし、 大蔵大臣高橋是清翁もおった事は先に述べたが、 是等の方々は多くの部下や友人等のいう事を信じ切っておられたものと思う。 それから満洲の現地には松岡満鉄総裁を中心として、 満洲国の官吏、関東軍の軍人達の大部分、なお特別な団体で東亜連盟会員の幹部等がおった。 僕は高橋大蔵大臣に会う前に荒木陸軍大臣に会ってお話しをした。 それは昭和七年の正月二日朝、僕が東京の国高販売部にいると、 山形から角田一郎という予備陸軍中佐が訪ねて来て、 「自分は山形の者だが、先生の満洲移民の必要性、可能性を聞き、真にもっともだと思って、陸軍省に行って同期生の永田軍務局長に会ったり、多くの後輩などにも説いたが、 誰も耳をかたむけてくれない。 私では駄目だから一つ先生を煩わして、陸軍を説き伏せたいと思う」というので、 その事なら何処へでも行くから連れて行けと答えると、 角田中佐は盛んに電話をかけていたが、陸軍大臣官邸に行ってくれという。 そこで乱暴な服装で二人して大臣官邸に行った。 そして来意を告げると、副官はちょっと驚いたような様子だったが、 奥に入って大将に報告したのであろう、大臣の面会室に入れられた。 待っていると荒木大将が出て来て、「何用ですか」と問われたから、 早速満洲移民問題をお話しすると、大将は僕も駄目だと思うと答えられた。 そこで二人の間に満洲移民についての大議論がはじまった。 しかし大将は真面目な人だから、僕のいう事に対して、疑問を一つ一つ並べて質問した。 話している中に僕の意見がよくわかられて、 非常に喜ばれ一々個条書きにして手帳に書きとられていた。 最後に「これを決行するとしたら僕は何を受持てばよいか、そして君は何を受持つか」 といわれたから、大臣は移住地の獲得、移民宿舎の設立(借入)、 移住者の一年以上の食物の準備、匪賊等に対する防禦用武器の供給、 軍医の選定、在郷軍人移住者の定等をお願いした。 そして僕の分担は出て来た移住者の訓練、これで移民は決行し得ると答えたら、 よく諒解して、しっかりやろうといっつて別れた。 しかし荒木陸軍大臣が可能論者になられても、 大蔵大臣が可能論者にならなければ移民の断行が出来ないので、 その高橋大蔵大臣を説得しなくてはならない。 その大臣が最も頑固な満洲移民不可能論者なのである。 満洲移民については石黒忠篤兄から大臣に話しをしたものと思うが、 那須皓博士や橋本伝左衛門博士が満洲移民可能論を話しに行ったら、 君等は移民現地に行って見て来たのかと質問されたので、 両博士とも「まだ現地には行っておりません」と答えたら、 現地に行かないでいう移民論など聞く必要なしとて、 一言のもとに断わられたと僕は聞いていたので、腹をきめていた。 拓務省と石黒さんから連絡があって、大蔵大臣に会いに行けというので、 満蒙移民可能論を話しに出かけた。大臣のいる大きな室に通されて待っていると、 大臣は一人の秘書をつれて出て来られて、 何用かというから日本農民の満洲移民の可能性を申し上げに来たというと、 いきなり右腕をまくって「君は現地に行ったか」と大きな声で怒鳴りつけた。 秘書はこれを見て直ぐ室を出て行ったので、僕と大臣と二人きりになった。 そこで僕は「現地に行って来ました」といったら、今度はいよいよ質問をはじめたから、 僕は心ひそかに「しめた」と思って、静かに大臣の質問に対して全部一つ一つ説きあかして、満蒙移民は何でもなく確かに出来ますと述べた。 すると大臣はいきなり僕は忙しいからといって、自分の机の方に行ってしまったから、 僕も後から追いかけてその前に行って、 「大臣どうか日本農民の為めに満蒙移民を断行して下さい」と頼んだら、 それでは試験移民として二回に分けて千人ばかりやって見よう、 成績が上ったら続けてやろう、但し悪ければ取り止めにするといった。 僕はこの返事をきいて大喜びで拓務省と石黒さんに報告した。 これが高橋大蔵大臣との話し会いのあらましである。 もう一つは松岡満鉄総裁との対談、 これは松岡総裁が同社員と共に日本農民の満蒙移民は駄目だといっていたので、 彼を説得するよう参謀本部の元関東軍作戦課長石原第2課長から頼まれたのである。 松岡総裁を説得するために僕は大連に乗り込んで、満鉄本社で総裁に会った。 そこで満蒙農業移民の不可能論を松岡総裁はとうとう三時間以上も弁じたて タ方になった。そして「加藤さんもうわかたでしよう」というから、 貴下一人で三時間以上も話されて、僕はまだ一口も話しをしない。 僕はわざわざこの事を話すために内地から来たのに一言も話させないのはひどいというと、 それなら明日星ヶ浦の料亭で昼食をすました後で聞こうという事になった。 僕はその晩旅館に帰って松岡総裁が述べた不可能論を一つ一つ個条書きにして、 その駁論を書きつけておいた。 翌日星ヶ浦の料亭で松岡総裁に僕の可能論を徹底的にやった。 そして最後に在郷軍人を集めて各地に移民させたが、 入植者の3分の2位は大体農業移民として残るが、 あとは金儲けをやりたいと思ったりして転業をしてしまう、 それで考えた結果青少年移民をする方が成功すると思うから、 これを断行したいと述べたら、松岡総裁は大賛成と喜んでくれた。 そして僕で出来ることなら何なりと応援するというので、 大訓練所の建設をお願いして承諾を得たのである。 最後に日本農民の満蒙農業移民可能論を極力応援した、 否むしろ主張した人々を申上げてみると、 頭とロで主張した方々の主なる人々は僕の親友である、 石黒、那須、小平、橋本の四人をはじめ日本の農業界の多くの方々である。 また手と足とで主張した人々は僕の弟分や教え子で、 日韓合併時代に朝鮮の群山や平康という、実にひどい荒地に20代の若夫婦で乗り込んで、 皆立派な田畑山林に仕上げた人々、それから満洲試験移民がはじまった時に、 僕に代って匪賊のおる、しかもひどい未耕地に乗り込んで、 匪賊や病魔と戦いながら立派な耕地にした親友等々の血と汗の結晶が、 満蒙農業移民の可能を強く日本国民のみならず、 在満並びに欧米露の人々にさえも示した事を忘れてはならない。 要するに日本農民の満蒙農業移民は、絶対に可能なりと極印を押さしたことは、 戦争で負けて出来た耕地はとりあげられ、また多くの可愛いし子供等のみならず、 その父母兄弟の多くの人が生命財産を失った悲しみを以てしても、 替え難い大事業をして下さったのである。 我等は一面悲しむと同時に、他面ほんとうに有り難く感謝すべきだと信ずる。 生死不ニ病亡生殺悉是一陣之風 (生死に関わる全てのことが、一陣の風のように軽々と変わってしまう)
満洲現地においてはもちろん、日本内地においても、 時の大蔵大臣高橋是清翁をはじめとして、陸軍大臣、ま た殖民に一番深い関係のある拓務大までもが、皆駄目だといっていたのである。 かかる際に日本農民が現地に乗り込んで行って、あらゆる困難を克服して、 立派に彼の地に落ち着くようになったのは、何といっても画期的な大事業であった。 不幸にして世界大戦において、日本が破れ、かっ満洲国も減亡したために、 成功しつつあったこの大事業も中途で挫折の止むなきに至り、 内地より移住した多くの日本農民は、悲慘な目にあって、 辛うじて日本に帰って来たのであけれども、あれ程御歴々が頑固に主張した、 日本人の満洲農業移民不可能論を見事打ち破って、 事実をもってその可能なことを示した功は、絶対に忘れてはならない。 現在は日本農民による満洲開発の不可能を主張する人など一人もあるまい。 しかしその当時のことを思うと、内外地における御歴々は皆反対だった。 そもそも満洲農業移民が駄目だという主張は、 いわゆる農業経済を教える欧米各国に横行していた企業的農業論である。 気候も悪いし、土壤の性質も日本内地とは違うし、 病害虫なども多い彼の地に日本農民が行って、 しかも土着の満人農民は生活程度が極めて低く、よく悪い気候を克服し、 男女ともによく働く、彼等の中に日本農民が入って、とても対抗できるものではない。 況んや匪賊の横行する所で、日本人が落ち着いて働けるものではないというのである。 しかしながらこれは日本農家の実情をよく知らぬ人々の農業経済論であって、 日本農民は一定の土地、しかも二、三町歩位の小さな土地で、 草木の適当に繁る所でさえあれば、 これを耕作して立派に生活して行くだけのカのある農民なのである。 それなのに欧米人の農業経済論にふり回わされて、 日本農民は満洲には移住できないと主張したのである。 その不可能論を打ち破ったあらましを、ここに書いておきたいと思う。 そして、一国の国民の前途を明かるくもし、また暗くもする、 我が国の責任ある立場にある方々の御参考に供したいのである。 多くの不可能論者の中に陸軍大臣荒木貞夫大将もおったし、 大蔵大臣高橋是清翁もおった事は先に述べたが、 是等の方々は多くの部下や友人等のいう事を信じ切っておられたものと思う。 それから満洲の現地には松岡満鉄総裁を中心として、 満洲国の官吏、関東軍の軍人達の大部分、なお特別な団体で東亜連盟会員の幹部等がおった。 僕は高橋大蔵大臣に会う前に荒木陸軍大臣に会ってお話しをした。 それは昭和七年の正月二日朝、僕が東京の国高販売部にいると、 山形から角田一郎という予備陸軍中佐が訪ねて来て、 「自分は山形の者だが、先生の満洲移民の必要性、可能性を聞き、真にもっともだと思って、陸軍省に行って同期生の永田軍務局長に会ったり、多くの後輩などにも説いたが、 誰も耳をかたむけてくれない。 私では駄目だから一つ先生を煩わして、陸軍を説き伏せたいと思う」というので、 その事なら何処へでも行くから連れて行けと答えると、 角田中佐は盛んに電話をかけていたが、陸軍大臣官邸に行ってくれという。 そこで乱暴な服装で二人して大臣官邸に行った。 そして来意を告げると、副官はちょっと驚いたような様子だったが、 奥に入って大将に報告したのであろう、大臣の面会室に入れられた。 待っていると荒木大将が出て来て、「何用ですか」と問われたから、 早速満洲移民問題をお話しすると、大将は僕も駄目だと思うと答えられた。 そこで二人の間に満洲移民についての大議論がはじまった。 しかし大将は真面目な人だから、僕のいう事に対して、疑問を一つ一つ並べて質問した。 話している中に僕の意見がよくわかられて、 非常に喜ばれ一々個条書きにして手帳に書きとられていた。 最後に「これを決行するとしたら僕は何を受持てばよいか、そして君は何を受持つか」 といわれたから、大臣は移住地の獲得、移民宿舎の設立(借入)、 移住者の一年以上の食物の準備、匪賊等に対する防禦用武器の供給、 軍医の選定、在郷軍人移住者の定等をお願いした。 そして僕の分担は出て来た移住者の訓練、これで移民は決行し得ると答えたら、 よく諒解して、しっかりやろうといっつて別れた。 しかし荒木陸軍大臣が可能論者になられても、 大蔵大臣が可能論者にならなければ移民の断行が出来ないので、 その高橋大蔵大臣を説得しなくてはならない。 その大臣が最も頑固な満洲移民不可能論者なのである。 満洲移民については石黒忠篤兄から大臣に話しをしたものと思うが、 那須皓博士や橋本伝左衛門博士が満洲移民可能論を話しに行ったら、 君等は移民現地に行って見て来たのかと質問されたので、 両博士とも「まだ現地には行っておりません」と答えたら、 現地に行かないでいう移民論など聞く必要なしとて、 一言のもとに断わられたと僕は聞いていたので、腹をきめていた。 拓務省と石黒さんから連絡があって、大蔵大臣に会いに行けというので、 満蒙移民可能論を話しに出かけた。大臣のいる大きな室に通されて待っていると、 大臣は一人の秘書をつれて出て来られて、 何用かというから日本農民の満洲移民の可能性を申し上げに来たというと、 いきなり右腕をまくって「君は現地に行ったか」と大きな声で怒鳴りつけた。 秘書はこれを見て直ぐ室を出て行ったので、僕と大臣と二人きりになった。 そこで僕は「現地に行って来ました」といったら、今度はいよいよ質問をはじめたから、 僕は心ひそかに「しめた」と思って、静かに大臣の質問に対して全部一つ一つ説きあかして、満蒙移民は何でもなく確かに出来ますと述べた。 すると大臣はいきなり僕は忙しいからといって、自分の机の方に行ってしまったから、 僕も後から追いかけてその前に行って、 「大臣どうか日本農民の為めに満蒙移民を断行して下さい」と頼んだら、 それでは試験移民として二回に分けて千人ばかりやって見よう、 成績が上ったら続けてやろう、但し悪ければ取り止めにするといった。 僕はこの返事をきいて大喜びで拓務省と石黒さんに報告した。 これが高橋大蔵大臣との話し会いのあらましである。 もう一つは松岡満鉄総裁との対談、 これは松岡総裁が同社員と共に日本農民の満蒙移民は駄目だといっていたので、 彼を説得するよう参謀本部の元関東軍作戦課長石原第2課長から頼まれたのである。 松岡総裁を説得するために僕は大連に乗り込んで、満鉄本社で総裁に会った。 そこで満蒙農業移民の不可能論を松岡総裁はとうとう三時間以上も弁じたて タ方になった。そして「加藤さんもうわかたでしよう」というから、 貴下一人で三時間以上も話されて、僕はまだ一口も話しをしない。 僕はわざわざこの事を話すために内地から来たのに一言も話させないのはひどいというと、 それなら明日星ヶ浦の料亭で昼食をすました後で聞こうという事になった。 僕はその晩旅館に帰って松岡総裁が述べた不可能論を一つ一つ個条書きにして、 その駁論を書きつけておいた。 翌日星ヶ浦の料亭で松岡総裁に僕の可能論を徹底的にやった。 そして最後に在郷軍人を集めて各地に移民させたが、 入植者の3分の2位は大体農業移民として残るが、 あとは金儲けをやりたいと思ったりして転業をしてしまう、 それで考えた結果青少年移民をする方が成功すると思うから、 これを断行したいと述べたら、松岡総裁は大賛成と喜んでくれた。 そして僕で出来ることなら何なりと応援するというので、 大訓練所の建設をお願いして承諾を得たのである。 最後に日本農民の満蒙農業移民可能論を極力応援した、 否むしろ主張した人々を申上げてみると、 頭とロで主張した方々の主なる人々は僕の親友である、 石黒、那須、小平、橋本の四人をはじめ日本の農業界の多くの方々である。 また手と足とで主張した人々は僕の弟分や教え子で、 日韓合併時代に朝鮮の群山や平康という、実にひどい荒地に20代の若夫婦で乗り込んで、 皆立派な田畑山林に仕上げた人々、それから満洲試験移民がはじまった時に、 僕に代って匪賊のおる、しかもひどい未耕地に乗り込んで、 匪賊や病魔と戦いながら立派な耕地にした親友等々の血と汗の結晶が、 満蒙農業移民の可能を強く日本国民のみならず、 在満並びに欧米露の人々にさえも示した事を忘れてはならない。 要するに日本農民の満蒙農業移民は、絶対に可能なりと極印を押さしたことは、 戦争で負けて出来た耕地はとりあげられ、また多くの可愛いし子供等のみならず、 その父母兄弟の多くの人が生命財産を失った悲しみを以てしても、 替え難い大事業をして下さったのである。 我等は一面悲しむと同時に、他面ほんとうに有り難く感謝すべきだと信ずる。 生死不ニ病亡生殺悉是一陣之風 (生死に関わる全てのことが、一陣の風のように軽々と変わってしまう)
昭和41年月3 加藤 完治
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