2023/12/21

日本の古典建築~紀元前6世紀から19世紀~

神道神社

作成日:2023/12/21Thu.
神の道を意味する神道は、
紀元6世紀の仏教伝来以前から日本に存在していた 宗教である。
最初神道は、岩山などの天 然の境界によって外界から分離された、
自然の美しさを湛える荘厳な場所で営まれた。
その後自然の材料・・・主に木を用 いた簡単な構造と草を用いた被覆・・・を 用いて、
鳥居と呼ばれる門や、小さな社が造られた。
高床式切妻(古代の穀物倉庫の形に基づいている)の
社という神道の建築様式は日本の景観の中に根付いていった。
その一方で、元来神道は大きな建築物を必要としない土着の信仰であった。
礼拝の場所を創造するために自然の要素を注意深く取り入れながら、
組織化された空間構成が礼拝の様式を形作っていった。
そして個々の構成部分と同じく、
それらの配置が重要になっていった。

鳥居

神道神社の不可欠の構成部分であり、
最古の建築様式の1つを 示しているものが、鳥居である。
それは柱梁構造をなし、通常地面に直接深く差し込まれた柱が2本の水平な梁を支えている。
こ の形は、礼拝者がその下をくぐり抜けることによって神の域に入 ることが、
許されることを象徴していると考えられている。



平面図
階段が、厚板の壁に開いた唯一の開口部である中央の扉に向かって続き、
それを上ると一段高くな った内側の神殿の前に立つ。
神殿の周囲は板張り の大床で囲まれている。
地面から直接立ち上がっ た柱が、
両側の切妻中央部で棟木を支えている。

建築
伊勢神宮の社の構造部材にはヒノキが用いられる。
それらは礎石によって受け止められるのではなく、
地面に直接深く差し込ま れた柱によって支えられている。
柱の下に礎石を持つ方式は、この方式よ りも古いものである。


以上






VLCの動画操作を使い勝手よく変更

投稿日:2023/12/21Thu.

VLCは軽くて、ほとんどのOSに対応しているので愛用している。
最近、溜め込んだ動画を鑑賞する機会が多く、
鑑賞時の操作に違和感があったので、
『ビデオの進む』と『巻き戻し』の移動秒数を再設定。

【再設定した数値】
#(VLC設定表現)(キー操作)(わかり易い表現)
1ほんの少し前に進む[Shift]+[Right]1秒 細かく進む
2少し先に進む[Alt]+[Right]3秒 先に進む
3先に進む[Ctrl]+[Right]10秒 大きく進む
4かなり先に進む[Ctrl]+[Alt]+[Right]60秒 更に大きく進む

■設定の手順■ 

1,VLCを起動する。

2,[Ctrl]+[P]で設定画面を開き、

      左下の“設定の表示”で    『◯すべて』をチェック。

3,詳細設定の窓に代わるので、“インターフェイス”の中の“ホットキー設定”を選択する。

4,左側のホットキー設定の“ジャンプする長さ”で好みの秒数を設定する。

  ※整数秒しか設定できないようです。

5,窓の左下『保存(S)』をクリックして、設定終了です。

以上


2023/12/20

線路は続くよどこまでも

2023/12/20Wed.

昨日散歩の途中に素敵な写真が撮れました。

IMG_0959

 

 

以上

ブログの構成からアップまでEverNoteを中心に

 

1,EverNoteで下書き、構成。
2,EverNoteでコピー。
image3,OpenLiveWriterに貼り付け

4,OpenLiveWriterで校正して終了。

以上

2023/12/18

AmazonPhotoのアルバムで写真を自分の希望通りに並べて表示する

 AmazonPhotoのアルバムを撮影日で表示させたときに、

思い通りの順番で表示されなかったので、

その解決策を備忘録で記載。

【失敗例】

目的の写真をAmazonPhotoのアルバムを表示してみると・・・








そこでXnViewMPというソフトで写真にタイムスタンプを一括でセットします。

上記からDL&インストールしてください。

写真が格納してあるフォルダを開いてタイムスタンプを設定していきます。



メニューの「メタデータ」から
「タイムスタンプの変更」を洗濯してください。


ここが肝心なところです。
下の図の赤枠で囲んだところをチェック入れることによって、
名前順に並んだ写真に対して、
順次1秒毎にタイムスタンプを書き込んで(変更)してくれます。

作業が終わったら、改めてAmazonPhotoの希望のアルバムに、
写真をアップロードしてください。

以上です。
作成アップ日:2023/12/18Mon.

 


2023/04/08

加藤完治の満州開拓開始にいたる概略とその意義

満洲開拓は当時あらゆる階層の人々が、 不可能だといっていた日本人の満洲農業移民が、 満洲の荒野を開いて、人類の生活に寸時も欠く事の出来ない、 衣食住の原料生産を立派に成し遂げたという事実を記録した実に大切な書物である。 その頃、日本人の満洲農業移民は無意味だ、絶対不可能だという愚論が、
満洲現地においてはもちろん、日本内地においても、 時の大蔵大臣高橋是清翁をはじめとして、陸軍大臣、ま た殖民に一番深い関係のある拓務大までもが、皆駄目だといっていたのである。 かかる際に日本農民が現地に乗り込んで行って、あらゆる困難を克服して、 立派に彼の地に落ち着くようになったのは、何といっても画期的な大事業であった。 不幸にして世界大戦において、日本が破れ、かっ満洲国も減亡したために、 成功しつつあったこの大事業も中途で挫折の止むなきに至り、 内地より移住した多くの日本農民は、悲慘な目にあって、 辛うじて日本に帰って来たのであけれども、あれ程御歴々が頑固に主張した、 日本人の満洲農業移民不可能論を見事打ち破って、 事実をもってその可能なことを示した功は、絶対に忘れてはならない。 現在は日本農民による満洲開発の不可能を主張する人など一人もあるまい。 しかしその当時のことを思うと、内外地における御歴々は皆反対だった。 そもそも満洲農業移民が駄目だという主張は、 いわゆる農業経済を教える欧米各国に横行していた企業的農業論である。 気候も悪いし、土壤の性質も日本内地とは違うし、 病害虫なども多い彼の地に日本農民が行って、 しかも土着の満人農民は生活程度が極めて低く、よく悪い気候を克服し、 男女ともによく働く、彼等の中に日本農民が入って、とても対抗できるものではない。 況んや匪賊の横行する所で、日本人が落ち着いて働けるものではないというのである。 しかしながらこれは日本農家の実情をよく知らぬ人々の農業経済論であって、 日本農民は一定の土地、しかも二、三町歩位の小さな土地で、 草木の適当に繁る所でさえあれば、 これを耕作して立派に生活して行くだけのカのある農民なのである。 それなのに欧米人の農業経済論にふり回わされて、 日本農民は満洲には移住できないと主張したのである。 その不可能論を打ち破ったあらましを、ここに書いておきたいと思う。 そして、一国の国民の前途を明かるくもし、また暗くもする、 我が国の責任ある立場にある方々の御参考に供したいのである。 多くの不可能論者の中に陸軍大臣荒木貞夫大将もおったし、 大蔵大臣高橋是清翁もおった事は先に述べたが、 是等の方々は多くの部下や友人等のいう事を信じ切っておられたものと思う。 それから満洲の現地には松岡満鉄総裁を中心として、 満洲国の官吏、関東軍の軍人達の大部分、なお特別な団体で東亜連盟会員の幹部等がおった。 僕は高橋大蔵大臣に会う前に荒木陸軍大臣に会ってお話しをした。 それは昭和七年の正月二日朝、僕が東京の国高販売部にいると、 山形から角田一郎という予備陸軍中佐が訪ねて来て、 「自分は山形の者だが、先生の満洲移民の必要性、可能性を聞き、真にもっともだと思って、陸軍省に行って同期生の永田軍務局長に会ったり、多くの後輩などにも説いたが、 誰も耳をかたむけてくれない。 私では駄目だから一つ先生を煩わして、陸軍を説き伏せたいと思う」というので、 その事なら何処へでも行くから連れて行けと答えると、 角田中佐は盛んに電話をかけていたが、陸軍大臣官邸に行ってくれという。 そこで乱暴な服装で二人して大臣官邸に行った。 そして来意を告げると、副官はちょっと驚いたような様子だったが、 奥に入って大将に報告したのであろう、大臣の面会室に入れられた。 待っていると荒木大将が出て来て、「何用ですか」と問われたから、 早速満洲移民問題をお話しすると、大将は僕も駄目だと思うと答えられた。 そこで二人の間に満洲移民についての大議論がはじまった。 しかし大将は真面目な人だから、僕のいう事に対して、疑問を一つ一つ並べて質問した。 話している中に僕の意見がよくわかられて、 非常に喜ばれ一々個条書きにして手帳に書きとられていた。 最後に「これを決行するとしたら僕は何を受持てばよいか、そして君は何を受持つか」 といわれたから、大臣は移住地の獲得、移民宿舎の設立(借入)、 移住者の一年以上の食物の準備、匪賊等に対する防禦用武器の供給、 軍医の選定、在郷軍人移住者の定等をお願いした。 そして僕の分担は出て来た移住者の訓練、これで移民は決行し得ると答えたら、 よく諒解して、しっかりやろうといっつて別れた。 しかし荒木陸軍大臣が可能論者になられても、 大蔵大臣が可能論者にならなければ移民の断行が出来ないので、 その高橋大蔵大臣を説得しなくてはならない。 その大臣が最も頑固な満洲移民不可能論者なのである。 満洲移民については石黒忠篤兄から大臣に話しをしたものと思うが、 那須皓博士や橋本伝左衛門博士が満洲移民可能論を話しに行ったら、 君等は移民現地に行って見て来たのかと質問されたので、 両博士とも「まだ現地には行っておりません」と答えたら、 現地に行かないでいう移民論など聞く必要なしとて、 一言のもとに断わられたと僕は聞いていたので、腹をきめていた。 拓務省と石黒さんから連絡があって、大蔵大臣に会いに行けというので、 満蒙移民可能論を話しに出かけた。大臣のいる大きな室に通されて待っていると、 大臣は一人の秘書をつれて出て来られて、 何用かというから日本農民の満洲移民の可能性を申し上げに来たというと、 いきなり右腕をまくって「君は現地に行ったか」と大きな声で怒鳴りつけた。 秘書はこれを見て直ぐ室を出て行ったので、僕と大臣と二人きりになった。 そこで僕は「現地に行って来ました」といったら、今度はいよいよ質問をはじめたから、 僕は心ひそかに「しめた」と思って、静かに大臣の質問に対して全部一つ一つ説きあかして、満蒙移民は何でもなく確かに出来ますと述べた。 すると大臣はいきなり僕は忙しいからといって、自分の机の方に行ってしまったから、 僕も後から追いかけてその前に行って、 「大臣どうか日本農民の為めに満蒙移民を断行して下さい」と頼んだら、 それでは試験移民として二回に分けて千人ばかりやって見よう、 成績が上ったら続けてやろう、但し悪ければ取り止めにするといった。 僕はこの返事をきいて大喜びで拓務省と石黒さんに報告した。 これが高橋大蔵大臣との話し会いのあらましである。 もう一つは松岡満鉄総裁との対談、 これは松岡総裁が同社員と共に日本農民の満蒙移民は駄目だといっていたので、 彼を説得するよう参謀本部の元関東軍作戦課長石原第2課長から頼まれたのである。 松岡総裁を説得するために僕は大連に乗り込んで、満鉄本社で総裁に会った。 そこで満蒙農業移民の不可能論を松岡総裁はとうとう三時間以上も弁じたて タ方になった。そして「加藤さんもうわかたでしよう」というから、 貴下一人で三時間以上も話されて、僕はまだ一口も話しをしない。 僕はわざわざこの事を話すために内地から来たのに一言も話させないのはひどいというと、 それなら明日星ヶ浦の料亭で昼食をすました後で聞こうという事になった。 僕はその晩旅館に帰って松岡総裁が述べた不可能論を一つ一つ個条書きにして、 その駁論を書きつけておいた。 翌日星ヶ浦の料亭で松岡総裁に僕の可能論を徹底的にやった。 そして最後に在郷軍人を集めて各地に移民させたが、 入植者の3分の2位は大体農業移民として残るが、 あとは金儲けをやりたいと思ったりして転業をしてしまう、 それで考えた結果青少年移民をする方が成功すると思うから、 これを断行したいと述べたら、松岡総裁は大賛成と喜んでくれた。 そして僕で出来ることなら何なりと応援するというので、 大訓練所の建設をお願いして承諾を得たのである。 最後に日本農民の満蒙農業移民可能論を極力応援した、 否むしろ主張した人々を申上げてみると、 頭とロで主張した方々の主なる人々は僕の親友である、 石黒、那須、小平、橋本の四人をはじめ日本の農業界の多くの方々である。 また手と足とで主張した人々は僕の弟分や教え子で、 日韓合併時代に朝鮮の群山や平康という、実にひどい荒地に20代の若夫婦で乗り込んで、 皆立派な田畑山林に仕上げた人々、それから満洲試験移民がはじまった時に、 僕に代って匪賊のおる、しかもひどい未耕地に乗り込んで、 匪賊や病魔と戦いながら立派な耕地にした親友等々の血と汗の結晶が、 満蒙農業移民の可能を強く日本国民のみならず、 在満並びに欧米露の人々にさえも示した事を忘れてはならない。 要するに日本農民の満蒙農業移民は、絶対に可能なりと極印を押さしたことは、 戦争で負けて出来た耕地はとりあげられ、また多くの可愛いし子供等のみならず、 その父母兄弟の多くの人が生命財産を失った悲しみを以てしても、 替え難い大事業をして下さったのである。 我等は一面悲しむと同時に、他面ほんとうに有り難く感謝すべきだと信ずる。 生死不ニ病亡生殺悉是一陣之風 (生死に関わる全てのことが、一陣の風のように軽々と変わってしまう)


昭和41年月3 加藤 完治

認識と認知の同一性とその崩れ








2023/03/30

満州事変からの第二次世界大戦への流れとウクライナ紛争との相似点

 


1930年の国際情勢は、緊張の高まりと大国間の紛争の脅威の増大によって特徴付けられました。大恐慌によって引き起こされた経済的困難は、ナショナリズムと領土への野望の高まりとともに、この不安定さを助長しました。

対照的に、現在の国際情勢は、多国間主義と協力がより強調された、より相互接続され相互依存するグローバルシステムによって特徴付けられます。しかし、世界の安定を脅かす重大な課題と緊張が依然として存在します。

2つの時代の重要な類似点の1つは、軍事紛争に発展する可能性のある領土紛争の存在です。1930年代、日本の満州侵攻とその後の1931年のこの地域の併合は、一連の出来事を引き起こし、アジアでより広範な紛争を引き起こし、最終的には第二次世界大戦に至りました。同様に、今日、ウクライナと台湾をめぐる進行中の領土紛争は、より大きな紛争を引き起こす可能性のある潜在的な発火点であり続けています。

ウクライナでは、2014年のロシアによるクリミア併合をめぐるロシアとウクライナ間の緊張が高まり続けており、ウクライナ東部のドンバス地域で散発的な衝突と停戦違反が発生しています。この紛争はまた、ロシアと西側の間のより広範な地政学的競争の代用にもなり、ロシアは西側がロシアを包囲して弱体化させるためにウクライナを支持していると非難している。

台湾では、台湾が争っている島に対する中国の主権の主張により、状況も緊張しています。中国はこの地域での軍事活動を強化しており、これには台湾付近での頻繁な海空哨戒が含まれており、台湾を本土と再統一するために武力を行使すると脅迫している。米国は、攻撃が発生した場合に台湾を支援することを約束しており、米国と中国の間の緊張をさらに悪化させています。

全体として、現在の国際情勢は1930年代よりも相互に関連し、協力的になっていますが、未解決の領土紛争と大国間競争の存在は、紛争の可能性が依然として懸念されていることを意味します。


ウクライナについて

日々の報道の適切な理解への基礎情報。

1,ウクライナの国土面積は約603,550k㎡で、
  日本の国土面積は約377,900k㎡。
  ウクライナの国土面積は日本の国土面積よりも約1.6倍。
2,クリミア半島の面積は、約2万6844k㎡ で、
  日本の静岡県・愛知県・岐阜県・三重県の4県(29,317平方キロメートル)ほぼ一致。




ウクライナ共和国の概略

背景

ウクライナは、10世紀と11世紀にヨーロッパで最大かつ最も強力な州であった最初の東スラブ国家、キヴァンルスの中心でした。ウクライナはソ連の解散により1991年に独立を達成しましたが、民主主義と繁栄はとらえどころのないままでした。国家統制の遺産は、経済改革、民営化、市民の自由への取り組みを妨げました。ウクライナは、インフラを破壊し、人道的危機を引き起こした2022年のロシアの侵略に激しく抵抗しています。

地理

エリア

合計: 603,550平方キロメートル
土地: 579,330平方キロメートル
水: 24,220平方キロメートル

気候

温帯大陸;クリミア南部の海岸のみの地中海。降水量は不釣り合いに分布し、西と北が最も高く、東と南東では少ない; 冬は黒海沿いの涼しいものから内陸部の寒いものまでさまざまです。南部で暑い国の大部分を暖かい夏

天然資源

鉄鉱石、石炭、マンガン、天然ガス、石油、塩、硫黄、グラファイト、チタン、マグネシウム、カオリン、ニッケル、水銀、木材、耕地

人と社会

人口

43,306,477 ( 2023 est。)

民族グループ

ウクライナ語77.8%、ロシア語17.3%、ベラルーシ語0.6%、モルドバ0.5%、クリミアタタール語0.5%、ブルガリア語0.4%、ハンガリー語0.3%、ルーマニア語0.3%、ポーランド語0.3%、ユダヤ人0.2%、その他1.8% ( 2001 est。)

言語

ウクライナ語(公式) 67.5%、ロシア語(地域言語) 29.6%、その他(には、クリミア語の小さなタタール語、モルドバ/ルーマニア語、ハンガリー語を話す少数派が含まれます) 2.9%( 2001 est。); 注-2018年2月、憲法裁判所は、州の人口の少なくとも10%が話す言語に「地域の言語」のステータスを付与する2012年の言語法を決定しました" -裁判所、学校、その他の政府機関での使用を許可することは違憲であり、したがって法律は無効になりました。ウクライナ語は国の唯一の公式の全国言語のままです

宗教

正教会(には、ウクライナ正教会( OCU )、ウクライナ自治正教会( UAOC )、およびウクライナ正教会-モスクワ総主教庁( UOC-MP ) <TAG1が含まれます>、ウクライナギリシャカトリック、ローマカトリック、プロテスタント, イスラム教徒、ユダヤ人( 2013 est。)

人口増加率

-0.52%( 2023 est。)

政府

政府のタイプ

半大統領共和国

資本

名前: キエフ(キエフ)

行支部

国家元首: Volodymyr ZELENSKYY ( 2019年5月20日以降)
政府首脳: 2020年3月4日以降、首相デニスSHMYHAL ( )

立法府

説明: 一院制の最高評議会またはVerkhovna Rada ( 450議席。 225人のメンバーが単一議席の選挙区で単純多数決により直接選出され、225人が単一の全国選挙区で直接非公開で選出された, 党リストの比例代表投票;メンバーは5年間の任期)

経済

経済概要

中所得の非EU東ヨーロッパ経済の低下。主要な小麦生産者;産業およびエネルギー輸出国;防衛への大きな財政再配分;ロシアと戦うために毎月20億TAG1を超える米国の戦時援助を求める; 大量戦争関連の移住とホームレス

実質GDP (購買力平価)

$ 535.579億( 2021 est。)

一人当たりの実質GDP

$ 12,900 ( 2021 est。)

農産物

トウモロコシ、小麦、ジャガイモ、ヒマワリの種、テンサイ、牛乳、大麦、大豆、菜種、トマト

産業

石炭、電力、鉄および非鉄金属、機械および輸送機器、化学薬品、食品加工

輸出

$ 815億4000万( 2021 est。)

輸出-パートナー

ロシア9%、中国8%、ドイツ6%、ポーランド6%、イタリア5%、トルコ5%( 2019 )

輸出-商品

トウモロコシ、ヒマワリの種油、鉄と鉄の製品、小麦、断熱配線、菜種( 2019 )

輸入

$ 841億7,500万( 2021 est。)

輸入-パートナー

中国13%、ロシア12%、ドイツ10%、ポーランド9%、ベラルーシ7%( 2019 )

輸入-商品

精製石油、自動車、包装医薬品、石炭、天然ガス( 2019 )

為替レート

hryvnia ( UAH )米ドルあたり-
27.286 ( 2021 est。)

1928年張作霖の爆殺事件(満州某事件)から太平洋戦争終戦まで

近代日本の大きな出来事の関連図





2023/03/29

明治以降の日本のイネの品種改良と生み出されたイネたち

雄町(おまち)

明治2~3年ころ、岡山県上道郡高島村の岸本甚造が、

伯耆大山に参詣の途次、良穂2本を持ち帰ったことに始まる。


亀治

明治3~8年の間、島根県能義郡荒島村の広田亀治が、

「縮張種」から抜き穂によって選出した。


竹成(たけなり)

明治7年、三重県三重郡竹永村の松岡直右衛門が、

「糯千本種」のなかに変わり穂を発見し、選出した。


神力(しんりき)

明治10年、兵庫県揖保郡中島村の丸尾重次郎が、

有芒種「程吉」のなかから無芒の良穂を発見し、選出した。


愛国

明治15年ころ、静岡県加茂郡青市村の高橋安兵衛が、

晩稲「身上起」から選出した「身上早生」に由来する。


亀ノ尾

明治26年、山形県東田川郡大和村の阿部亀治が、

「冷立稲」のなかから選出した。


衣笠早生

明治28年、高知県長岡郡十市村の鍋島菊太郎が

「出雲早生」のなかから出穂の早い変異株を発見して「菊太郎早生」と名付け、

同郡稲生村の吉川類次郎がさらに穂選を加えて改良した。

この品種は高知県の二期作発展の因をなした。


坊主

明治28年ころ、札幌郡新琴似村の江頭庄三郎が、「赤毛」のなかから

無芒の変異株として発見した。

この品種は北海道の稲作の拡大に役立った。


明治41年に、京都府乙訓郡向田町の山本

新次郎が「日の出」のなかから変わり穂を発見し、選出した

日本へは栽培稲がどのようなルートで渡来したのか

(1)伝来の時期

日本では,いつごろからイネつくりが行なわれるようになったのだろうか。

文字による記録がない古い時代のことなので,

それを調べるには古代人の遺跡や遺物の発掘によるほかはない。

そのような考古学的な研究から,

日本のイネつくり文化(農耕文化)は,

紀元前2~3世紀に青銅や鉄の文化とともに北九州に伝えられ,

その後西日本一帯に急速にひろがり,

東日本にまで及んだと推定されている。

歴史学では,この新しい文化の時代を弥生時代と呼んでいる。

弥生時代の前,およそ1万年つづいたといわれる繩文時代の人たちは,

野生の子実を採集したり,狩猟や漁撈によったりして生活を営んでいた。

農耕文化の到来は,自然にあるものを採って食べる生活から,

一定の場所に定住して食糧をみずから生み出す生活へと,

原始社会に大変革をもたらしたにちがいない。

弥生時代にイネつくりが始まったとする考古学的な証拠には,

次の諸点があげられる。

①弥生時代の多くの遺跡から,

炭化した籾や米が多数出土する。

また弥生式土器には籾跡のついたものが,たくさん発見される。

②繩文時代にはなかった鉄の道具でつくった木製の鍬,

鋤,田下駄(面の広い泥田ではく下駄),田舟(収穫に使う小舟)や,

米を蒸したと思われる底に小穴のあいた土器などが,弥生時代に使われている。

③とくに石庖丁と呼ばれる磨製の石器は,

弥生時代の特徴をあらわす農具として有名で,

つの孔にひもを通して手先に密着させ,稲の穂をつみ取るのに用いられた。

④静岡県の登呂遺跡のような水田遺跡が発掘されている。

登呂遺跡は,弥生時代の紀元前100年ころのもので,

安倍川ぞいの湿地に400~600坪の水田が規則正しくつくられ,

今もあぜ道の両側に打ち込まれた木の杭が残されている。

稲を収めた高床式の倉庫跡も見られる。

⑤銅鐸は弥生時代の後期,紀元2~3世紀につくられたわが国独得のつりがねを横に押しつぶしたような形をした青銅の宝物で,

30~135cmの大小さまざまなものが出上しているが,

銅鐸の表面に刻まれた図柄のなかに,日と杵を使って脱穀をしている人の姿や,

高床式の倉庫などがある。

以上のような遺跡や遺物がもたらした知識から,

弥生時代の人たちのイネつくりのようすは次のようなものだっただろうと想像されている。

イネつくりは直播で,湿地に種子が播かれた。

収穫期になると,田下駄や田舟を使って石庖丁で穂だけをつみ取り,

適当な量を束ねて日に乾かし,高床式の倉床にたくわえた。

穂は必要に応じて臼に入れ,竪きねでついて脱穀した。

米は今のように煮るのではなく,底に小穴のあいた土器に入れ,

水を張った別の土器の上に乗せ,下から火を炊いて蒸した。

田植えが行なわれるようになったのは,

飛鳥時代(紀元6~7世紀)ころからといわれる。

今のところ,弥生時代以前に日本でイネつくりが行なわれていたとする考古学的な証拠は得られていない。

しかしそれ以前にもイネつくりがあったという新たな証拠が,

今後発見されないとは限らない。


(2)中国渡来説と南方渡来説

イネは日本の自然環境では自生できない。

とすれば,日本のイネとイネつくりは,

どこかの国から人によってもたらされたに違いない。

それには次のようないろいろな説がある。

①中国北部(華中)から朝鮮半島をへて日本へやってきたとする説

②中国中部(華北)の揚子江流域から海路日本に渡ったとする説

③南方から黒潮に乗って直接日本に流れついたとする説

④南方から,島伝いに日本に伝えられたとする説

こでは①,②の説を中国渡来説,③,④の説を南方渡来説と呼ぶことにしよう。

弥生時代の遺跡42か所から発見された扨と,

86か所から出上した土器についていた籾跡は,

すべて短粒型であり,当時も現在と同じ日本型のイネがつくられていたことを示す。

アジアの国々のうちで日本型のイネが分布しているところは,

中国の華中,華北と朝鮮半島とであり,

中国では今から4,000~5,000年も前からイネつくりが行なわれていたことや,

日本と朝鮮,中国との間に古くから往来があったことなどを考え合わせると,

中国渡来説が最も有力なように思われる。

このうち,華北から朝鮮半島をへて日本に渡来したとする①の説は,

弥生時代に特徴的な石庖丁が華北や朝鮮にかけて分布していて,

他の地方ではみられないことなどからも支持されている。

しかし,華北の農業の主体はコムギやコウリャンで,イネは少なく,

華北のイネつくりが朝鮮半島を南下したという証拠もない。

それはたして日本の弥生時代以前に,

朝鮮南部にイネつくりが行なわれていたかどかも不明であり,

この説を疑問視する意見もある。

これに比べると,華中・揚子江流域から海路日本に渡来したとする②の説は,

日本稲によく似たイネ(梗)がこれらの地域に多く分布していることから,

より可能性が高い。華北の緯度は日本の東北地方にほば等しく,

イネの種類も早生種に限られているが,

華中では播種期が3月初旬から5月上旬にわたり,

昔も早生種から晩生種にいたる多様な熱期のイネが存在していたものと思われる。

日本稲の幅広い熟期を考えると,

華中からいろいろの熟期のイネが日本へ入ったとみるほうが自然だろう。

日本の繩文時代の終わりころの中国は,春秋戦国の時代で,

呉や越の国が滅びていった。

これらの敗戦の流民が新しい永住の地を求めて,

イネやイネつくりの技術をもって,

大量に海を渡って日本にやってきたことも想像される。

南方渡来説は,インド,ジャワ,台湾などの在来種に,

日本型のイネが存在しない点で弱点をもつ。

しかし,

インドのアウスやジャワのプルは形態的に日本型とインド型との中間に位置し,

日本稲との親和性もかなり高いし感光性も低い。

とくにアウスは,日本の自然環境のもとでも開花結実する。

インドやジャワでは3,000年以上の古いイネつくりの歴史があり,

ジャワのプルに似たタイプのイネがフィリピンや台湾の山地にも

分布していたことを考えると,

インドやジャワから直接あるいは島伝いにこれらのイネが日本へ伝わった可能性も否定できない。

古代インドの『ヴェーダ経』のなかでは,

イネをウリヒーと呼び,これが日本のウルチと似ていることや,

ジャワでのプルのイネつくりや台湾の高砂族によるイネっくりの方法が,

穂だけをつんで束ねて日乾するなどの点で,

日本の弥生時代のイネつくりに似ていることなども,

南方渡来説を支持するものとして興味深い。

言語学では,古代の日本人の言語がインドネシア系のポリネシア語と,

朝鮮・モンゴル系の北方アルタイ語とに深いかかわりをもっことを指摘している。

また日本古来の神話のなかにも,北方系の神話と南方系の神話とが混在しているという。

これらのことは,弥生時代以前に南方系の民族が

日本に入り込んでいたことを示唆するもので,

当時すでに日本にイネが持ち込まれたことも考えられなくはない。

2万年の人類の道標

 人類の長い道のりの中で、

19世紀20世紀などは

ほんの一瞬でしかない。

そのほんの一瞬のうちに人類は

傲慢になりそして強欲になってしまった。